コラム(文化)
南九州 文学の碑(いしぶみ)- 島尾敏雄文学碑 瀬戸内町
加計呂麻 死と生の原点
太平洋戦争の遺構が数多く残る瀬戸内町の加計呂麻島。深く静かな入江がある呑之浦に、「出会い」をテーマにした島尾敏雄の文学碑が建立されている。
島尾は九州大学を繰り上げ卒業し、海軍予備学生に志願。特攻艇「震洋」52隻と隊員約180人を指揮する第18震洋隊隊長として、1944年11月21日、呑之浦に着任した。「太平洋を震撼させる」との意味を込めた震洋は、250㌔の爆薬を搭載したベニヤ製のモーターボートだった。出撃に向けて訓練を続ける中、島尾はのちに妻となる大平ミホと出会う。逃れられぬ死の宿命を見据えながら、二人は逢瀬を重ねてゆく。
45年8月13日、特攻戦発動の信令が下る。「こころにもからだにも死装束をまとった」緊張状態で発進命令を待つが、15日に無条件降伏の伝達を受ける。死から突然生還した島尾は戦後、生涯を通してこの複雑な思いに向き合った。
48年に「島の果て」、49に「出孤島記」、62年に「出発は遂に訪れず」を発表。85年には「魚雷艇学生」が刊行された。戦争ものの集大成とするはずだった「(復員)国破れて」を書き始めた86年、69歳で急逝する。特攻隊体験とミホ夫人との出会いは、島尾の魂の原点として終生胸にあったのだろう。
50年に「出孤島記」で第1回戦後文学賞を受賞。その後も「死の棘」で芸術選奨、読売文学賞、日本文学大賞を受けるなど、戦争ものや家庭での葛藤、超現実主義を主題にした作品で多くの賞を受けた。しかし島尾は生前、碑の建立を固辞したという。
三回忌を控えた88年春、ミホ夫人と元震洋隊員ら20人余りが呑之浦を訪れた際、改めて文学碑建立の話が持ち上がった。7月には建立実行委員会が発足。瀬戸内町をはじめ奄美群島や全国の文学愛好家、震洋隊関係者などから浄財が寄せられ、発足から約4カ月後の12月4日に「島尾敏雄文学碑」の除幕式を迎えた。
碑は島尾隊の本部があった小高い敷地に立ち、2つの大きな御影石が寄り添いながら、青く澄んだ入り江を見下ろしている。寄付は予算の777万円を大きく上回ったという。その後、文学碑と格納壕も含めた基地跡は町が「島尾敏雄文学碑公園」として管理し、島尾文学の聖地となっている。
2024年12月7日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
【参考文献】
▽島尾敏雄「魚雷艇学生」(新潮文庫・1989年)「島の果て」(集英社文庫・2017年)
▽荒井志朗監修、震洋会編集「写真集 人間兵器 震洋特別攻撃隊」(国書刊行会・1990年)
▽大島新聞(88年12月5日付)
【碑のデータ】
碑は高さ約2㍍。周りに五つの台座石があり、それぞれ呑之浦にゆかりのある作品の一節が刻まれている。制作は瀬戸内町出身の彫刻家・栄利秋氏。2008年には碑後方の丘に島尾とミホ、長女マヤの遺骨の一部が埋葬された。






