コラム(文化)

南九州 文学の碑(いしぶみ)- 詩と哲学と信仰を希求

吉満義彦の胸像

徳之島町亀津


「吉満先生がいなければ今の俺たちだってないんだからな」

作家遠藤周作(1923〜96)が、友人の神父に声を荒げていった言葉である。遠藤にとって吉満義彦は哲学の師であり、日本人とキリスト教をテーマとする文学の道へ導いてくれた恩人だった。

吉満は近代日本のカトリック思想界を代表する哲学者であり、詩と哲学と信仰が一つになることを希求し続けた稀有な人物である。それは時代よりはるかに先んじていたようだ。

一九〇四年、鹿児島県大島郡亀津村(現徳之島町)に生まれた吉満。父の義志信は村長や県議を務め、「徳之島事情」という民俗誌を記した人物である。同町では、町制50周年(2008年)の節目に、二人の胸像を設置している。

41年という吉満義彦の短い人生を辿ると、親しいものの死と燃えるような学究心が交差する。10代半ばまでに弟や妹、母や父が逝去するものの、鹿児島一中(現鶴丸高校)を首席で卒業し、旧制一高から東京帝国大学倫理学科に入学。カトリック哲学者の岩下壮一と出会い、卒業後はフランスへ留学して、当時最も影響力のあった哲学者ジャック・マリタンに師事している。帰国後は、上智大学や東京大学などで哲学を講じた。

29歳の時、不治の病に侵された輝子と結婚するが、3ヶ月後に死別。愛する者の霊を胸に抱くことで、彼の哲学は目に見えない世界へも深まった。岩下の早逝後は、講演や論文等で日本のカトリック思想界を担っていく。

自らも詩を書き哲学にも詩情を求めた吉満は、1934年10月、弟の義敏と雑誌「創造」を発行。「文学者と哲学者と聖者」「詩と愛と実存」の論考や、リルケ、ドストエフスキーなどの文学論を発表。小林秀雄への書評も書いている。日本全体が戦争に傾(なだ)れ込む時代に、詩や人間の普遍性を語る思想は多くの学者や学生に影響を与えた。学生時代に吉満に近く、のちに評論家となった加藤周一は「ほとんど救いのように見えた」と回想する。

だが、再び死が吉満を襲う。戦争末期の45年1月、献身的に支えた妹栄子が急逝。10月には、吉満自身が結核により天に召されていった。主著を出す直前の惜しまれる死であった。

吉満の論文は雑誌での発表が多く難解な言葉が多かったため、戦後の混乱の中で次第に忘れられていった。だが、没後40年になって影響を受けた関係者らにより『吉満義彦全集』全5巻が発刊された。現在も吉満義彦の研究は緩(ゆる)やかに進んでいるという。その魂は引き継がれているようだ。

2025年12月6日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

若松英輔「吉満義彦 詩と天使の形而上学」(岩波書店・2014年)
若松英輔編「文学者と哲学者と聖者 吉満義彦コレクション」(文藝春秋・22年)
柘植光彦編集「遠藤周作」(至文堂・08年)
「吉満義彦全集(全五巻)」(講談社・1985年)

吉満義彦とその父義志信のブロンズ胸像(高さ70センチ)は、満彦の親族が制作し、長らく石材店に保管されていたという。2008年に徳之島町が町制50周年を記念して御影石の台座(高さ104センチ、幅61センチ)を造り、同町亀津の生涯学習センター前に設置した。(大島郡徳之島町亀津)

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