コラム(文化)

南九州 文学の碑(いしぶみ)- 俳人山口誓子 来島之碑 和泊町

木枯に特攻の悲哀重ね

海に出て木枯(こがらし)帰るところなし

戦後の現代俳句を牽引した山口誓子(190194)の句碑が、沖永良部島・和泊町の越山(こしやま)にある。1947年の第6句集「遠星」で発表された。代表句の一つとされるこの句の背景と、碑になるまでをたどる。

 京都に生まれた誓子(本名新比古ちかひこ)は2歳から、父新助と母岑子(みねこ)に代わり、岑子の祖父脇田嘉一に育てられた。現在でいう弁護士だった嘉一は氷山の号を持つ漢詩人で、岑子自身やその祖父に当たる織田翠山(すいざん)も、詩歌の愛好者だった。

 誓子は32年の第1句集「凍港(とうこう)」で「私の芸術に対する欲求は総て母系から遺伝されている」と誇らしく語っている。嘉一は平家全盛期を支え、壇ノ浦の戦いで敗れ能登へ配流になった平時忠(ときただ)の末裔(まつえい)だった。

 嘉一が新聞社社長として樺太に赴いた11年、岑子が自死。誓子は翌年樺太へ渡り、京都の中学に転入するまでの5年間、荒涼の地で多くの経験をし俳句にも出会った。母の死と樺太は俳人誓子の原点だろう。

 旧制三高から東京帝大に進んだ誓子は嘉一への恩に応えるべく勉学に励むが、過労から胸を患(わずら)う。戦争中も「病人の私のなし得ることは句を作ること以外になかった」。疎開と療養を兼ねて三重県四日市市で暮らしていた441119日、「海に出てー」の句が作られた。

 誓子はのちに、「私が知っている木枯はシベリアから吹いて来るのです」「木枯は陸を離れ行ったきりでもはや還(かえ)って来ることはない。その木枯はかの片道特攻隊に劣らぬくらい哀れである」と回顧する。俳人西東三鬼(さいとうさんき)は「木枯と身を化して無限の端(はし)を覗いた人」の「独語(どくご)」と評し、病に苦しむ当時の心境を推察した。

 病が癒えた誓子は全国を精力的に回った。鹿児島の離島を訪れたのは72歳から。平家の末裔として落人の足跡をたどろうと、奄美大島、硫黄島、喜界島、沖永良部島、与論島を訪ねる。

 77歳で訪れた沖永良部島(おきのえらぶじま)では、和泊町長の武田恵喜光(たけだえきみつ)にこの句を揮毫(きごう)した。数多く中から選んだのは、沖縄へ向かう特攻機が心の中で見えたからだろうか。沖永良部、与論の各島では喜界島や徳之島を中継した特攻機が撃ち落とされるのが目撃されている。

 誓子訪問から10年後の87年、和泊句会や武田氏などの尽力で句碑が建立された。句会は長くかかったお詫びにと建立まで毎年島の花を送ったという。

 「海に出てー」の句碑は、誓子とゆかりのあった同県鈴鹿市の西方寺(さいほうじ)にもある。

2025年4月5日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

<碑データ>高さ110センチ、幅77センチ。誓子直筆の句が彫られ約1メートルの台座に立つ。

周囲は見晴らしのいい公園となっている。大島郡和泊町内城(うちじろ)

⭕️参考文献

「山口誓子全集」(明治書院・1977年)

「自作案内」(増岡書店・53年)

「山口誓子」(桜楓(おうふう)社・79年)

武田恵喜光「私の人づくり町づくり」(自費出版・88年)

⑤積山泰夫(やすお)編集「俳人山口誓子来島の記  喜界島・沖永良部島・与論島」(同・2013年)

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