コラム
南九州 文学の碑(いしぶみ)- あやまる岬の田中一村の句碑 奄美市
孤高の画家の足跡残す
巨大なソテツの群生地が広がる奄美大島あやまる岬。
ここを見下ろす高台に、奄美の動植物を大胆に描いた日本画家、田中一村(本名孝1908〜77年)の句碑がある。
当時、日本最南端だったこの島に一村が着いたのは、‘58年の暮れ。満50歳のときだった。彫刻家の父のもと、幼いころから神童と言われ東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学した一村だったが、2ヶ月で退学。父母や弟を相次いで亡くし、同期の東山魁夷らが大家となっていくなか、自分が納得する「生涯の最後を飾る絵をかく為に」、家を売り払い決死の覚悟での移住だった。
<熱砂の浜あだんの写生吾一人>アダンやガジュマル、鳥や魚など亜熱帯の動植物は、一村を魅了した。残された写生帳の余白には画家らしい目で詠まれた俳句が、いくつも添えられている。トタン屋根の小さな家を借り、日給450円の大島紬の染色工となり、早朝の散歩には写生帳とカメラをもって出かけた。ソテツ群生地のあるあやまる岬へはバスで行ったようだ。
一番の理解者だった姉の死、極端に切り詰めた生活のなかで、奄美を全身全霊で絹本に描き続けたが、次第に体調を崩し、77年9月、人知れず69歳の生涯を閉じたのだった。
その後、生前に一村と親交があった島の陶芸家夫妻が個展開催を熱願。無名の一村の存在は大きく変化してゆく。新聞記者や美術教師、島人らの協力のもと開催された遺作展には、一村が閻魔大王への土産と語った「不喰芋(クワズイモ)と蘇轍(ソテツ)」など12点の大作やデッサンなどが展示され、3日間で3千人あまりの島民が訪れた。その圧倒的な作品と孤高の生きざまに、驚きと感動が広がった。
やがてN H K 「日曜美術館」で紹介されると、異例の反響が巻き起こる。伝記本の出版、相次ぐ展覧会などで、画家田中一村は一気に全国に知られていった。奄美には足跡をたどる来島者が増え、写生場所への問合せが相次いだ。
そこで地元文化協会を中心に、写生地のひとつであるソテツ群生地付近に石碑を建立した。
<砂白く潮は青く千鳥啼く>
碑には一村の句が刻まれた。2001年には、鹿児島県が田中一村記念美術館をが建設、美術の教科書には大家とともに一村の絵画が掲載された。「五十年か、百年後に私の絵を認めて」くれればいいと語った一村。夢の実現は、驚くほど早く訪れた。
2024年8月3日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
◾️参考文献
南日本新聞(1986年8月9日付)
「広報かさり」(86年9月)
南日本新聞社編「アダンの画帖 田中一村伝」(小学館・95年)
「田中一村 新たなる全貌」(千葉市美術館 鹿児島市立美術館 田中一村記念美術館・2010年)