コラム(文化)
南九州 文学の碑(いしぶみ)- 重野安繹先生 流請の地
奄美の「学者村」を築く
重野安繹先生流謫の地 瀬戸内町
幕末の1858年3月、31歳の小柄な流人が薩摩から奄美大島にやってきた。その名は重野安繹(やすつぐ・1827〜1910)。のちに高名な漢学者となり、日本で初めて文学博士(史学)となった人物である。
幼い頃から多才だった重野は、島津斉彬に抜擢され藩校から江戸幕府が設置した昌平坂学問所へ留学。「天下の才子」として学者間でも知られるが、藩費のことで罪に問われ、自ら「願遠島(ねがいえんとう)」を申し出たらしい。
奄美では唐通事(中国語通訳)の家で膨大な和漢書を読了し、人口の多かった阿木名村(現瀬戸内町)の有志達に請われて寺子屋を開き「四書五経」などを講じた。近隣からも門弟が集まり、のちの奄美の教育界に人材が多数輩出したため、阿木名は「学者村」と呼ばれたという。
奄美北部に西郷隆盛が改名して潜居すると、同年齢で旧知の仲だった重野は20里(約27キロメートル)の山道を徒歩で訪ね、古書を読み合い漢詩の添削をするなどで互いに行き来している。
「阿木名校区誌」などによれば、約5年間の遠島生活の中で重野はウミという女性を妻にし、一女ヤス(安)をもうけた。赦免後、様々な任務をこなした後に妻子を引き取りに来たが、ウミが再婚していたため、10歳くらいだったヤスだけを引き取ったという。
当時、島に派遣された薩摩の役人は島妻を置くのが一般的だったが、妻子を引き取りに来ることはなかった。地元で重野が今なお語り継がれるのは、流人ながら妻子を引き取りに来たということも大きいように思う。ヤスは長女として育てられた。重野は律儀で几帳面な人間だったようだ。阿木名では海沿いの寺子屋跡に碑と説明板を建て、寸劇や肖像写真などで伝承に努めている。
帰藩後、重野は次々と重要任務を任せられる。薩摩藩が起こした生麦事件や薩英戦争後の交渉を和議で決着させ、藩史編纂の任を受けて歴史家の道を歩みだすと、明治期には国史編纂に従事することとなる。業務が政府から帝国大学に移管されて史学科が置かれると、日本初の文学博士の一人となった。また、史料的に実証できないものは抹殺すると論じて「抹殺博士」の異名をとるが、日本で最初に実証主義を提唱した歴史学の泰斗となった。
漢文界においては、明治を代表する名文家(号は成斎せいさい)として国内外に知られた人物であった。百歳まで生きるつもりでいたが、84歳で逝去。怒涛のような人生に、遠き奄美の海を思う日もあっただろうか。
2025年8月2日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
<碑データ>
重野安繹没後100年となる2010年に、阿木名校区と瀬戸内町立図書館・郷土館により、伊須湾添いにあった寺子屋跡に碑と説明板が設置された(瀬戸内町阿木名)。個人の敷地(95.45平方メートル)だが、長年、阿木名集落が草取りなどで管理をしているという。






