唄の島

奄美の島唄とは

奄美の島唄

島唄と歌遊び

「島唄」という言葉は奄美で生まれ、沖縄にも伝わったという説が有力であるが、これまで沖縄でも、奄美でも定義が曖昧のままに使われてきた言葉といえるのではないか。
島唄は奄美だけでも、語句通りに島の唄全体を指すことがあるが、大体は三味線伴奏で歌われる歌遊びの歌をそう呼ぶ場合が多い。

神歌、八月歌、仕事歌、遊び歌、童歌

ではそのほかの歌は何と言われているのか。ノロ、ユタと呼ばれる神事をする人が、集落の安寧を祈ったり、個人の厄払い等をする歌は、「神歌」とか「くち」「おもり」等といわれる。また、短い歌詞を男女が掛け合いで歌いながら踊る八月踊りは、狭義の島唄と最も近い関係の歌だといえるが、こちらは「八月歌」というのが普通である。
その他、かつて、海や田畑で歌われた船漕ぎ歌や田植え歌、田の草取り歌等々の労働歌は、主に「いと(掛け声)」と言われた。現在はそれらの仕事がほとんど姿を消したので、三味線を伴奏にした遊び歌に変わってしまった。また、子供のための童(わらべ)歌も豊富だ。諸行事や「諸鈍シバヤ」「与論十五夜踊り」のような芸能に歌われる歌などを挙げれば数えきれないほどである。

遊び歌にみる信仰

今回は、遊び歌(歌遊び)としての島唄を中心に紹介していきたい。これは、そのまま「歌って遊ぶ唄」、ないし「歌って遊ぶこと」と考えて間違いはない。ただ、「遊び」という言葉は今我々が言う遊びよりはずっと範囲が広く、神遊びともいうべく信仰的な意味がいささか加わっているようだ。もちろん、島唄自体に娯楽的要素はあるのだが、座を清めるとか、神様の引き合わせで今我々は集まったとか、こんな意味合いが確かに加わっているのである。

島唄は集落の財産

もう一点忘れてならないのが、「島唄」の「島」が、島嶼とは限らず、奄美では「自分達の住む集落」をも指すということである。つまり「歌遊び」自体が集落単位で行われてきたということであり、歌の言葉も、節回しも、かつては集落ごとの財産だったようだ。他の地域に行って、曲の節回しを変えようものなら、叱られるところもあったと聞く。その点、今の歌い手(唄者)は、集落を超えて、自分の個性を思い切りアピールすることもできる。ある意味近代化したのである。

三線の伝来

島唄の主体となる楽器は、サンシル、サムセン、サンシン等々と言い方は異なるが、14.5世紀頃中国から沖縄に伝わったいわゆる三線である。先ず沖縄に入って、形状等も中国の形をほぼ保っていて、その流れの三線が奄美に入ってきたことは間違いない。それ以前の奄美沖縄における楽器と言えば、太鼓が主なものであ った。音楽的な面から言うなら、三線は特に奄美では旋律楽器であると同時に、太鼓に代わるリズム楽器であったとも言える。リズムは、とても大切にされたのである。
なお三線は最初は琉球王朝に入ったので、長い間男性だけの楽器であった。しかし、近年は、多くの女性が三味線を奏でながら歌うようになり、島唄自体がかなり変化してきたとも言える。つまり、女性が三味線を持つことで、女性がいくらでも高音で歌えるようになり、男性がついていきにくくなったのである。つまり、島唄の何よりの魅力であった男女掛け合いが難しくなったということである。

詩形は琉歌調が中心

島唄は、そのほとんどが短詩形歌詞のやりとりで、8886調の琉歌調と呼ばれる詩形が中心である。文字通り、沖縄の影響とみるのが妥当であろう。
詳しく調べると、奄美島唄における実際の詩形はもっと多い。琉歌調についで本土系のものが多いといえる。その一つは、7775調の近世小唄調歌詞であるが、奄美の代表的な手踊りである「六調(ろくちょう)」の詩形でもある。他に「今様(いまよう)」と言われ、平安時代末期の歌謡
集である「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に頻出する75757575調もいろいろに形を変え、島唄に出てくる。例えば、「行きゅんにゃ加那節」や奄美の「数え歌」の類がそうである。

音階は日本音階が主流

音階の問題では、沖縄は日本本土とは全く異なる琉球音階が主流であるが、奄美でも沖永良部島、与論島の歌にその影響が強く表れている。ほか奄美北部はむろん沖縄的な音階がときどき現れるが、主流は日本の五音音階や民謡音階であると音楽学者は言っている。

奄美独自の「裏声」の由来

次に大きな特徴である「裏声」であるが、裏声は沖縄にも、鹿児島本土にも見当たらないため、外来のものとは言えないが、どうして生まれたのか多くの説が存在する。私自身、まだ絶対の自信はないが、かなり昔に、島唄の長老から「裏声は逃げ声だ」と聴いたことが頭から離れない。つまり、三味線の音高に合わせたり、後に示す歌問答で、相方の音の高さに合わせるために、裏声を使ったのが初めてではないかと想像している。ただ、その証明はまだ出来ていない。

多くは恋歌、教訓歌

主流は恋歌である。先にも述べたが、男女の掛け合いが主体だったので、当然遊びの席で恋が芽生えることも多かった。歌遊びで結婚したカップルは戦後も何人か見られたほどである。
また、教訓歌も多く歌われた。奄美には「歌半学(うたはんがく)」という言葉が今も生きているが、歌を勉強すれば、学問の半分はしたのも同然だ、という意味である。

物語歌、うわさ歌から学ぶ

その他、多くの事柄が歌になっているが、私は「物語歌」あるいは「うわさ歌」とでもいうべき一群の歌を、最も奄美的特徴を持ったものと考えている。「かんつめ」「ちょうきく」「うらとみ」といった悲劇の女性から、「やちゃ坊」といった義人的人物、「なべ加那」といった神女とおぼしき人物も登場する。
「歌半学」という言葉を挙げたばかりだが、教訓的な文句だけでなく、彼らの生きざまが、島人の学びの対象になったのではないかと思われる。

幕末の奄美の民俗などを絵と文章で描いた『南島雑話』(名越なごや左源太著)の「掛哥(かけうた)ノ図」には、男女の歌掛けの様子が描かれている。

掛哥(かけうた)ノ図

ここでは、男女が分かれて手拍子だけで歌を即興でつくり歌いつつ、膝ですり寄り手のひらを打ち合わせ、また元の位置に戻る。歌は即興でつくり、すらすら歌えるものを上手とするとある。

掛哥(かけうた)ノ図(『南島雑話』奄美市立奄美博物館)

八月踊り(奄美大島)

八月踊り

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