唄の島
奄美の新民謡
大正末期から昭和の初期にかけて全国的に「新民謡ブーム」が巻き起こった。
新民謡は民謡に比べ、作詞作曲者が明確で、一部例外もあるが、ほぼ五線譜で表現できるのが特徴だ。
奄美群島でも新民謡が作られ、戦前の新民謡には「永良部百合の花」、「月の白浜(しらはま)」・「磯の松風
(各1934年)など牧歌的なものがあるが、南国情緒たっぷりの「島育ち」が代表格だ。新民謡の特徴としてその土地の地名や言葉、特産品などが歌詞の随所に盛り込まれている。主な歌の歌詞の一節を紹介しよう。
戦前ののどかな時代の歌
「永良部百合の花」(1931年)
♫永良部百合ぬ花 亜米利加(あめりか)に咲かちヤレクヌ(囃子) うりが黄金花 島にヨー 咲かさー アンガヨーサトナイッチャシュンガシュンガ(囃子)
(沖永良部島の百合球根は米国へ輸出されていた。生産過剰の年があり価格調整のため球根の海中投棄を行ったが、百合への鎮魂と百合農家の士気高揚のためにこの歌が作られた。)
「島育ち」(1939年)
♫赤い蘇鉄の 実も熟れる頃 加那(かな)も年頃 大島育ち
♫黒潮(くるしゅ)黒髪 女子(うなぐ)身の恋(かな)しゃ 想い真胸(まむね)に 織る島紬
(奄美では最も知られる名曲で、1962年に全国的にブレイクした。加那は愛しい人(妻や恋人)の意。)
日本復帰前の歌
第2次世界大戦後、1946年から53年までの8年間を、奄美群島はアメリカ軍政府の管轄下に置かれた。日本本土との交流は、文化的にも物資的にも皆無となり、故国への復帰、望郷の想いが歌作りの原動力となった。
「島かげ」(1947年)
♫つらなる海の西東 別れた島の別れた島の 思いぬかなしゃ
「名瀬セレナーデ」・「本茶(ふんちゃ)峠」・「新北風(みいにし)吹けば」(各1948年)、「夜明け船」(1949年)、「日本復帰の歌」と心に残る多くの名曲が生まれた。代表格が「農村小唄」だ。戦地から戻った男達が銃を鍬に持ち替えて、希望をこめて家族のために荒れ地に挑む歌詞が共感をよんだ。)
「農村小唄」(1948年)
♫唐鍬(とうげ)ぬ軽さよ ヤレ加那と打ちゅる 荒地畑(あらじばて)ぬ ソレ唐鍬ぬ軽さよ (唐鍬は三つ又の鍬)
「日本復帰の歌」(1951年)
♫太平洋の潮音(しおのと)はわが同胞の血の叫び 平和と自由を慕いつつ起てる民族20万 烈々祈る大悲願
(この歌を歌い、奄美群島民は心をひとつにして復帰運動を展開した。)
戦後の奄美ブーム
「はたおり娘」(1958年)
♫奄美の都 名瀬の街 新川(しんごう)の水で テーチ木染めて かようオサ音 ほほえみかわす 島の名産 手織りの紬
(はたを織る女性たちに奄美の経済を支えているという自覚と誇りを与えてくれた名曲である。)
「島のブルース」(1963年)
♫奄美なちかしゃ ソテツの陰で 泣けば揺れますサネン花よ 長い黒髪 島娘 島娘よ
(「島育ち」で始まった全国的な奄美ブームの中で最大のヒット曲。歌、三味線、太鼓、囃子、踊りと南国情緒がたっぷり加わった。)
「与論小唄」
♫わたしがあなたにきた時は ちょうど十八花ざかり 今さら離縁というならば もとの十八なしてくれ
(明治末ごろ与論からの出稼ぎに出た人々が内地から持ち帰った歌に、時事に沿った歌詞が加えられていった。)
「ワイド節」(1978年)
♫ワイドワイドワイド わきゃ牛ワイド 全島一ワイド 三京(みきょう)の山風(やまかぜ) いきゃ荒さあても 愛(かな)しゃる 牛ぐゎに 草刈らじうかりゅめ ウーレウレウレ 手舞んけ 足(すね)舞んけ 指笛(はと)吹け 塩(ましゅ)撒け ウーレウレウレ わきゃ牛ワイド 全島一ワイド
(訳)ワイドは掛け声。歌詞は、わが家の牛は全島一、三京の山風がどんなに強くても、可愛い牛に草を刈って与えぬわけにはいかないぞ〜と歌う。徳之島、沖縄の琉球弧の島々を席巻し、愛唱されて続けている名歌。
奄美で生まれた新民謡は、風光明媚な郷土の愛郷歌として、また日本祖国復帰の意思の歌として、また仕事歌として奄美の人々に声援(エール)を届けてくれた。奄美新民謡は、歌という範疇を超えて奄美の人々の歴史となった。