コラム(文化)

南九州 文学の碑(いしぶみ)- 牧水の歌碑①

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

この歌は若山牧水の歌とわからなくても、多くの人に知られている短歌だろう。43歳で命を終えるまで約9千首の歌を詠み、多くの人に愛唱された若山牧水の歌碑は全国に約350基ほどと言われているが、故郷である宮崎に建立された歌碑を3回にわたり取り上げたい。

牧水(本名繁)は、1885(明治18)年、宮崎県東郷村坪谷という峡谷にある集落で医者の父立蔵と母マキの待望の長男(姉が3人)として生まれた。幼い頃から母に連れられて山へ行き、川では鮎釣りなどで遊んだという。歌人としてのペンネームは、大好きだった母の名と、目の前に流れる坪谷川にちなみつけたという。今回は、生家の裏山にどっしりと横たわる巨石に彫られた歌碑を紹介したい。

<ふるさとの尾鈴(おすず)のやまのかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り>

幼い頃から文才にたけていた牧水は、早稲田大学文学部英文科に入学し、北原白秋や尾上柴舟のほか石川啄木などとも交流し、卒業後も東京の地で文学活動を続けて文学者を志しす決意をしていた。だが、1912年に父危篤の報を受けて帰郷、2ヶ月前には結婚をしたばかりであった。帰郷の船上で知人にあてた手紙の中に、「父が病気だといふので遮二無二戻されることになりました。くるしい郷里に、今年は秋を迎へねばなりますまい」と書いている。

故郷を出て帰ってこない牧水に対して一度も怒らなかったという父。祖父の健海は埼玉から移り住んだ漢詩も詠む先進的な医者であったが、同じく医者となった立蔵は

長男だった牧水に若い頃の自分の夢を託していたのかもしれない。

坪谷では、母マキをはじめ親族が、この地にとどまることを強く迫った。牧水は、深く悩み、家族にも村人にも会うことを避けて毎日のようにこの裏山に来ては石の上に登り、尾鈴連峰を眺めたり、本を読んだりしていたという。尾鈴山(海抜1405メートル)は、懐かしくも切なく見えたことだろう。「ふるさと」という言葉には、東京に対比しての「ふるさと」であった。

だが帰郷して3ヶ月後に父が逝去、やがて母から許されて上京。その途次において当時の深い想いを詠んだ第6歌集「みなかみ」を作成したという。この歌は歌集の巻頭におかれている。約500首が収められた歌集には、当時の懊悩(おうのう)する気持ちからか、牧水にしては珍しい大胆な破調が多い。

 

参考文献
大悟法利雄「牧水歌碑めぐり」(短歌新聞社、1984)
「ふるさと日向の文学碑」(鉱脈社、2001)
伊藤一彦「牧水・啄木・喜志子」(ながらみ書房、2023)
伊藤一彦編「若山牧水全歌集」(角川文化振興財団、2025)

 

2026年4月13日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

1947年、牧水の生まれた坪谷の有志の提唱で発足した「牧水郷土歌碑建設会」が建立。地元や県内外から協力があり募金は順調に進んだ。暴風雨の時に山から転げ落ちて来た自然石に、のみと金槌で彫ったという。日向市有形文化財。毎年、命日の9月17日に碑の前で歌碑祭が開催され、献酒や短歌の朗詠が行われている。(日向市東郷町)

牧水生誕の家

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