コラム

南九州 文学の碑(いしぶみ)-日本初のロシア文学者-昇曙夢

波穏やか加計呂麻島の芝集落日本初ロシア文学者となった昇曙夢胸像公園ある

 この離島の漁村とロシア文学の間んな接点があったのだろう碑文を読みつつ、彼の足跡辿った。

 曙夢(本名直隆)は、西南戦争の翌年の1878年に生まれた。大島高等小学校を卒業後、鹿児島師範学校を受験するも失敗。地元でカツオ漁の手伝いをしながら、失意の日々を送ってい

 だが、兄の知人でギリシャ正教の信者と出会、彼の人生は大きく羽ばたいてゆく。天啓のような感動を抱いた16歳の少年は、周囲の反対を押し切り鹿児島で洗、東京の神田に完成したばかりのニコライ正教神学校へ入学する。7年間の寄宿舎生活で、国漢数以外をすべてロシア語で学び、信仰よりも文学や哲学など貪欲に吸収していった

 日露戦争が開戦した1904年に、露国文豪ゴーゴリを出版。ペンネーム「曙夢」は、敬愛していた内村鑑三訳詩集にある「詩は英雄の朝(暁)の夢なり」から付けたという。

 この出版で、ロシア文学翻訳の先駆者であ二葉亭四迷と知り合い、翻訳評論などを執筆し始めるロシアの情報や文学は注目され、09年に四迷が45歳の若さで客死すると、「昇曙夢の時代」といわれるほど、文壇やジャーナリズムで活躍してゆく

 トルストイやゴーリキー、ドストエフスキーなどの文豪のほか、ロシアの新進リアリズム作品を「作中人物共に燃焼し躍動しながら」翻訳。武者小路実篤一作品紹介されるたびに人々は争って読み、その度に新鮮な感じを受けた」と語るように、芥川龍之介をはじめ文学青年らに大きな影響を与えていった

 曙夢にとって、圧政に苦しむ当時のロシアの農奴は、奄美の人々と重なって見えたのだろう。ロシアの民俗と並行した奄美研究への情熱は、『奄美大島と大西郷』『大奄美史 奄美諸島民誌』に注がれた。「月の白浜」など新民謡の作詞も手掛けている。奄美群島の日本復帰運動は、奄美連合全国委員長などを歴任。病をおした命懸けの活動で、大きく貢献した

 55には集大成の『ロシ・ソヴト文』を上梓、そ年の読売文学賞、日本芸術院賞を受賞。58年に、鎌倉の自宅で80年の激動の人生を閉じた。その16年後、郷土の偉人として胸像が建てられた。離郷してロシア文学者となり、生涯約180もの本をした曙夢の魂は、今、ネリヤの海を眺めている。

2022年4月3日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

【碑データ】

胸像は高さ約90㌢。みかげ石の台座に載せられている。建立のための浄財は目標の約6倍も集まったという制作は奄美の彫刻家、基俊太郎瀬戸内町

【参考文献】田代俊一郎「原郷の奄美 ロシア文学者 昇曙夢とその時代」(書肆侃侃房2009

昇曙夢「還暦記念 六人集と毒の園」(昇曙夢訳 正教時報社1939

加藤百合「明治期露西亜文学翻訳論攷」(東洋書店2012

 

南日本新聞 2022年4月3日 「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

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