インタビュー
《インタビュー》浜田百合子氏
日付: 2025年2月3日
場所:鹿児島大学国際島嶼教育研究センター奄美分室
How did you come to live on Amami Oshima?
あなたが奄美大島に住むようになった経緯を教えてください。
大学時代の友達が講談社にいて、私もその時は法律関係の出版社を辞めてフリーランスで一緒に働いていていました。その彼女に夕食を誘われたことがありました。今みたいに携帯がない時代だったので、夕方6時に近くの待ち合わせ場所に行ったら、彼女が仕事の都合で遅くなり、そこに連絡係としてきたのが浜田でした。彼は当時、講談社の写真部で働いていて、そこで初めて出会いました。彫りの深い顔立ちから、アイヌか沖縄の出身かと思いました。既婚者だと思ったのですが、話してみると飾らない人柄で、結構気が合いました。私はあんまり都会が好きじゃなかったようです。今思えば、都会のビルのモノクロ的な感じが合わなかったのかもしれません。貧血気味だったからかもしれませんが、いつも頭が重たい気分でした。その時は島に行こうなんて全然考えてなかったのですが、出会ってしばらくして結婚の話になりました。当時は、奄美ではなく大島出身だと言うので東京生まれの私は、てっきり伊豆大島と思っていました。どういうところと聞いても、来てみればわかるよと言うばかりで、具体的には教えてくれないので、とりあえず行くことにしました。
What was your first impression?
最初の印象はどうでしたか?
最初に奄美大島に行ったのは、45年前ですから、1980年頃です。初めて奄美大島に行った時、島にしては高いビルがたくさんあるなと思いました。東京の下町のような印象を受けました。奄美大島と言うとハブがたくさんいて、土俗的な感じに思う人もいるかもしれませんが、名瀬の本通りは、東京で言えば銀座通りのような感じかもしれません。特に大島紬が売れていた時代でしたので、女性は皆さんとてもおしゃれでした。私はよく「東京の人のようにはしていないね」と言われたものです。ほとんどノーメイクでGパンとTシャツ姿でしたから。
都会的でビルが多いのと、海の色が驚くほど美しかったです。一番初めに、大浜海岸に連れて行ってくれたのですが、それまで海と言えば、臨海学校で行った千葉のような海しか知りませんでした。今思えば濁っていましたが、それが海だと思っていました。当時、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」という小説が流行っていて、そのタイトルの限りなく透明に近いブルーという色がどういう色なのか分からなかったのですが、大浜の海を見た時、ようやく、それが目の前にある透き通った青い色だと分かって感激しました。街の家の屋根が爽やかなブルーに塗られているのも、童話的で素朴な印象を受けました。
Have you lived in Naze since the beginning?
奄美は、最初から名瀬に住まわれたのでしょうか?
浜田の郷里が龍郷(たつごう)町の円(えん)集落で、実家や親戚が住んでいる円には挨拶には行きましたが、仕事場を名瀬(なぜ)市(現奄美市)にしていたので、名瀬に住み始めました。結婚前に一度来て、一年後に奄美で結婚式をあげました。招待客300人に驚きました。
Did your parents say anything?
ご両親は 何とおっしゃってましたか?
うちの母は、島ということに抵抗があったようです。近所に四国に嫁いだ人がいて、すごく苦労したと聞いていたようです。だから島に対しては、反対というより心配をしていました。島での暮らしにいろいろ援助をしてくれました。
父は、反対はしませんでした。浜田が素朴な感じだったからでしょうか、浜田が挨拶にきた時もニコニコして、「おめでとう」と言ってくれました。結婚式には、親族10名ほどをを引き連れて、そのまま沖縄観光旅行へ行ったようです。奄美に降り立った感動を短歌にしていたので、今でも仏壇に飾っています。
Did you have any reservations at all about living on an island?
島に住むことに全く抵抗はなかったのでしょうか?
島については本当に全く知識がなかったですね。奄美がどこにあるのかも、大島紬が有名だということも全く知りませんでした。島といえば、幼い頃に大好きだったテレビ番組の「ひょっこりひょうたん島」や、小学校のとき流行ってよく口ずさんでいた「島育ち」や「島のブルース」です。同級生に沖縄の子がいて卒業の謝恩会に琉球舞踊を踊ってくれて、素敵だなあと思っていました。だから母が心配するような差別的なことは考えてなかったので、抵抗感はなかったです。ただ、地図で探してもなかなか出てこなくて、ようやく見つけたのが、本当に豆粒ほどでしたので、多少の不安は出てきました。
How was life on the island back then?
その時の島の生活はどうでしたか?
実際は、けっこう大変でした。私は公務員の娘でしたから商売は経験ないし、「いらっしゃいませ」も言った事がありませんでした。また浜田の兄が2人とも写真関係で、3人で頑張ればということでしたが、なかなか思うようにはいきませんでした。狭い名瀬の町に兄弟が同業者で同じような仕事したのではお客の取り合いになると思い、私たちはカメラ販売やDPE店はやらずに写真館を始めました。また、以前、私が編集の仕事をやっていたので、浜田とともに結婚式や百日写真などの撮影を手伝いながら、学校アルバムを何校かやらせてもらうようになりました。でも学校アルバムは利益率が低いので他の仕事を探していたところ、偶然、瀬戸内町役場企画課から町勢要覧の仕事をさせてもらうことになりました。そこから観光課や社会教育課などで印刷物の仕事をさせていただくことになりました。
当時は名瀬でも他の離島の市町村でも、鹿児島の業者に発注していたようです。浜田が営業で何度も掛け合って、地元を育てるために地元でできることは地元でやらせて欲しいと交渉して、その後、名瀬市や龍郷町、笠利町、喜界町などいくつかの市町村の仕事をさせていただくようになりました。
You were for many years the editor of the Horizon, the Amami islands archipelago magazine, the only available publication on the islands about the islands and from the islands. When and how did you come to start the magazine?
そうした写真を活用して 奄美の情報誌「ホライゾン」をいつ、どのように創刊しましたか?
学校アルバムや市町村要覧のほか、次第に黒糖焼酎や本場奄美大島紬、農産物など奄美の代表的な特産品のほか、観光ポスターやパンフレットなどを手がけるようになってきました。都会に憧れていた浜田でしたが、故郷へ帰って来て、故郷のことを風景の美しさはもちろんのこと島の良さや面白さを写真に収めるようになっていました。
1988年には、当時の鹿児島県大島支庁の商水観光課の中にあった奄美群島観光連盟から、奄美群島のイベント情報紙の制作依頼がありました。鹿児島県からの初めての仕事で、奄美群島全体の郷土芸能やスポーツイベントなどの日程や場所を写真と文字で簡単に紹介するものでした。島尾敏雄が提唱した「ヤポネシア」をもじったものをタイトルに「奄美ネシア」と名前をつけて制作を開始しました。これが「ホライゾン」の前身です。A4版12頁のものでしたが、これを制作するうちにイベント情報だけではなく、特集記事も入れるように提案しました。
群島のイベント情報を入れるということ以外は、だいたいはこちらからの提案型でした。例えば文化で言えば、西郷隆盛を主人公にしたNHK大河ドラマ「翔ぶが如く(とぶがゆく)」が放映されるという時には、奄美や徳之島、沖永良部島での逸話や史跡を紹介したり、奄美十景や、島々で見られる珊瑚礁の特徴、大物釣りのメッカなど文化や自然物を見開き2ページで簡単に紹介してきました。裏面に産業的なものも少し入れたりもしました。写真が美しいということで仕事の依頼が来たのですが、写真を活かしながら期待されている冊子を作ろうと思っていました。ただ、特集ページを入れたとしてもその他はイベント情報ですので、もっと奄美の奥深さを引き出す情報誌を作りたいと欲が出てきまして、浜田と二人で、県の職員の方々に提案したところ、大賛成してくれて、とても賑やかに会議が進みました。
予算の縛りはありましたが、いいものを作りたい、今までにない物を作りたい気持ちはありました。全体を24頁と決め、年2回の発行の中で、観光連盟からの要望である群島全体にわたるテーマを考えようと、色々資料を探しました。まだ奄美のガイドブックがなかった時代です。観光パンフレットは多少はありましたが、通り一遍の情報でした。海の景色は掲載されていましたが、森の紹介は全くと言っていいほどなくて、クロウサギの紹介にも剥製の写真が載っている程度でした。1991年に、名瀬市観光課で作らせてもらった「風になれ」「光になれ」のポスターはとても評判を呼び、この時初めて奄美の森に脚光が浴びたのでした。この森への視点は画期的なものだったと思います。それまでは、森はあってもないもののような感じでした。
「風になれ」ポスター(1991年)
奄美の紹介をするにしても、奄美出身でない私が勉強しないことには、読者に伝えることはできません。奄美を知るために、必死で図書館や古本屋さんに行って奄美に関係する本をさがしましたが、私が欲しい情報は少なくて、多くは研究書の類でした。そこで新聞の切り抜きをはじめ、各市町村のパンフレットを集めたり、お土産屋さんのパンフレットや、宣伝文句、外食に出かけた時に箸入れに書いてあるものなど、ほんの小さなことでも私にとっては全てが新鮮な情報でしたので、それらを集めては項目別の紙袋に分けて、読み込んでいきました。
そうした中で出会ったのが、「Coralway」という現在の日本トランスオーシャン航空の機内誌です。沖縄に行った時、あまりに素晴らしいので、持ち帰ってきました。沖縄県内の自然や文化、歴史、特産品、沖縄の人々の生活などを、美しい写真とイラストを散りばめたページ作りで、楽しく読ませる工夫に溢れていました。こんな冊子を奄美でも作りたいと、新冊子(のちの「ホライゾン」)の教科書にさせてもらいました。また、様々な雑誌からデザインや構成の仕方、テーマなどを勉強させてもらいました。中でも、小学館の「サライ」という雑誌からは、インタビューの仕方を参考にさせてもらい、「夢追い人」シリーズなどに役立てることができました。
人を雇うこともできないものですから、二人で話し合い、写真撮影と営業は浜田が、私が取材と編集をやることになりました。持続できる自信はなく不安でしたが、二人で奄美に関することを制作していける喜びがありました。結婚を決めた時、奄美で何かもの作りをすることが一つの夢でしたから。
What was the original concept? What made it distinctive ?
この雑誌の元々のコンセプトは何でしたか?この雑誌を際立たせたのは何でしょうか?
今までのイベント情報や景色や建物など、目にみえる情報ばかりではなく、見えないけれども島を語るときに必要なものも入れたいと、歴史や文化、昔話、言葉や、音楽、島で暮らしている人々などもテーマにしようと考えました。そして、こだわったのが、まずは手に取ってもらえるように美しい写真でビジュアルに楽しく、そして一口サイズで奄美のエッセンスがわかるような冊子づくりでした。奄美の歴史、自然、文化、そしてそこに住む人々を紹介したい。そして、奄美の人々による奄美からの発信を心がけました。自分は出身者ではないにもかかわらずですね。
まずは店頭で手に取ってもらえるようなインパクトのある写真をメインに、ページを開くたびに一口サイズで奄美の面白さが伝わるような冊子を島から発信したいという気持ちを私たちは共有していました。私が一口サイズの情報にこだわったのは、私のように外から来た人間がコンパクトに奄美を知って、エッセンスを理解できればいいなと常々思っていたからでした。全く知らないところにやってきた私自身がそういう情報誌が欲しかったのです。
島の人にとっては当たり前のことが、外から見たらとても珍しかったりします。奄美に来た当初は全てが珍しくて仕方なかったですし、その歴史や言い伝え、科学的な根拠などをもっと詳しく知りたくて、浜田によく聞いていました。日常的なことはわかっても専門的なことはなかなかわからないので、なんでだろうどうしてだろうと頭の中はいつも疑問でいっぱいでした。郷土料理、島唄、島の森や珍しい生物たち、美しい海や色とりどりの魚、珊瑚礁、また方言や郷土芸能などなど知りたいことはいっぱいありましたし、自分の子供たちにも親として伝えなければならないという責任感も湧いていました。方言廃止運動や、島差別など負の部分も含めて奄美を知りたかったですね。
「ホライゾン」で奄美の様々なテーマを掘り下げようと思いついたのは「奄美は眠れる獅子である」という言葉に出会ったのが大きかったと思います。様々な資料を探し出す中で、このエッセイがありました。資料の山に埋もれて今は探し出すことはできませんが、奄美出身のどこかの大学の教授の方だったように思います。私はこの言葉に出会い、眠れる獅子である奄美を起こしてみたいと思ったのでした。
私の勝手な解釈では、奄美は実は獅子のように大きな存在であるが、その面白さや素晴らしさが、未だ知られておらず、眠っているような状態にあるといっているのではないかと思いました。そして、なんとかして、この眠れる獅子を揺り起こしたい思ったのです。起こしたら、本当の獅子として大きな存在感があるのだ教えてくれているように思いました。昔、半紙にミカンの汁で絵や文字を書いて火鉢の上で炙ると、浮かび上がる炙り絵みたいなのがありました。同様に、奄美の様々なテーマを掘り下げていくことで、奄美という獅子が炙り出されるのではないかと想像したのです。各テーマを掘り下げて獅子を浮かび上がらせる役目が「ホライゾン」なのかなと思い、その言葉にすごく影響を受けました。
当時の奄美群島観光連盟からは、群島を平等に紹介すると言うこと以外はありませんでした。そして、経費を補う意味で、民間のコマーシャルを入れたいという私たちのお願いを、課長の英断で許可してくださいました。これは当時としては大変画期的なことで、今でも心から感謝しております。のちに、(一社)奄美群島観光物産協会と、奄美群島広域事務組合の協賛というように変化はしていきましたが、各市町村からの協力金と民間会社からの広告費という協力を得て、島おこし冊子として「ホライゾン」が出発できたのでした。
広告はある程度補助にはなりましたし、ありがたかったですね。島興しの雑誌なのでとお願いして、協力していただきました。ただ、いいものを作りたかったので印刷費が高かった。私たちの撮影や編集費用は度外視しても、印刷代と諸経費に当てるので精一杯でした。特に写真の色出しに拘ったので、印刷代やデザイン代も嵩みました。でも、責任感と自分もやってみたいという気持ちで乗り切ったというのが本当のところです。知りたいと思うことを、お金をいただいて仕事として取材していけるのはとてもありがたかったです。
How did you come up with the title of your magazine “Horizon”?
奄美群島の情熱情報誌「ホライゾン」のタイトルはどのようにしてできたのですか?
奄美群島観光連盟から、冊子のタイトルは奄美の島々に共通にあるものといわれていました。会議では様々な案が出されたのですが、共通点はやはり「海」でした。そこから水平線という言葉が出され、英語にして「ホライゾン」ではどうかという案が出て、全員が賛成してタイトルが決まりました。奄美には、水平線の彼方に豊穣の国(ネリヤカナヤ)があると信じられてきました。奄美群島に平等にみえる水平線の彼方は、ネリヤカナヤでもあるわけです。いいタイトルになったと皆さんと喜び合いました。ただ、英語の教科書に「ホライゾン」というのがあるのを知り、すぐその出版社に連絡をしました。後で差し止めなどがされたら大変なことになるとの思いでしたが、「一地域の冊子なので、問題はない」との了解を得ることができました。
さらに「奄美の情熱情報誌」と情熱という文字を入れたのは、私たちの気持ちでした。お金はないけど、情熱だけはあるという思いを入れ込んだのでした。奄美を知らない私でしたが、この冊子の制作に携わる中で、群島各地で色々な方に出会い、教わりました。奄美群島の周辺のトカラ列島や沖縄の離島などへも、足を伸ばしこともありました。経費を考えたら割は合わないのですが、知りたいと思ったら、行動してしまう性分でしたので。でも、鹿児島や沖縄との関係のなかで比較していくことは必要なことですし、奄美の特徴がより強く浮かび上がってくるのではないかと思いました。
Did you have particular favorite themes?
特に好きなテーマはありましたか?
浜田は、東京ではファッションカメラマンに憧れたそうですが、島に帰って来てから、郷土芸能など島の良さを改めて見直していたようで、あるときアマミノクロウサギに出会い、自然に開眼したようです。私は森より海の美しさに感動しましたが、浜田は森に魅了され、その後森通いが続きました。森にはハブやケンムンがいるので、一般の島人は森へ入ることを忌避する時代でしたが、森の植物や生物、ケンムン話も大きなテーマになりました。国の特別天然記念物のアマミノクロウサギや、森の守神のケンムンやハブのことは、昔話も含めて何回も誌面に登場させました。とても興味深いテーマです。
私の興味は、まずは食と島唄でした。島唄を初めて聴いたときは、言葉も歌い方も全然わからず、ちょっと怖いような不思議な体験でした。名瀬の商店街で唄者の坪山豊さんのミニコンサートがあったのですが、島の人しかわからない独特な言葉と雰囲気があり、近寄れませんでした。帰ってから、恵原義盛さんが書かれた島唄の歌詞集を古本屋で見つけて、読むうちに鳥肌が立つほど感動しました。島唄は奄美の「万葉集」だと思ったのです。おおらかな浪漫、直情的な恋の歌はとても感動的です。文字を持たなかった当時の島人が即興で歌いあい、それを何百年も伝えてきたことにも驚きました。独特のコブシや裏声などには面食らいましたが、その奥深さを「ホライゾン」でなんとか伝えたいと思いました。またその背景や歌遊びのこと、太鼓、三味線、人気唄者のことなど興味はどんどん膨らみました。
食は、多くの方が興味を持つテーマだと思います。なぜこの料理が生まれたのだとか、調理方法やレシピ、また栄養面など、色々興味が高まります。奄美に最初来た時、龍郷町円で豚骨野菜(ワンフネヤッセ)をご馳走になったのですが、その豚肉の巨大さは、赤ちゃんの頭ほどもあるかと思ったほどでした。出汁が染み込んだツワブキはヘルシーで、その美味しさは今でも変わりません。
また、油そうめんの中でも、出汁そうめんの美味しさは格別でした。秋名という地域で八月踊りをしながら家々を回る行事を浜田が撮影するため同行したのですが、踊りがひと段落した時、「くるくるぽんっ」と私の口に投げ込んでくれた味が仰天するほど美味しくて、夢に見るほどでした。色々な人に聞いてようやくわかったのが、出汁をたっぷり吸い込んだ出汁そうめんと言うものでした。これはどんな高級な料理にも負けないほど美味しいと今でも思っています。奄美では雑魚で出汁を取るのですね。こうした隠れた技が、味を引き立てているのだと思っています。最近、沖縄料理を取材する仕事をしたのですが、奄美の油ソーメンは沖縄で古くから伝わってきたソーミンタシヤーから影響を受けていると思われますが、沖縄では出汁は入れずに作ります。こうした違いがさまざまなところで見えて、影響されつつオリジナル性を追求してきた奄美の先人の知恵が垣間見られるのです。
How many people were involved in running the magazine?
雑誌の出版にどれだけの人が関わりましたか?
1995年の8月に、奄美の情熱情報誌「ホライゾン」を創刊しました。タイトルの由来でもあるエメラルドグリーンに光る美しい水平線の写真を表紙に持って来ました。巻頭エッセイは、東宝映画のゴジラが奄美でも撮影されたため、「ゴジラが見える島々」として、その監督に書いていただきました。そして特集では、まずは、私たちの住んでいる島のことを古代から知らなくてはということで、「古代の奄美が語りはじめた」として、奄美の考古学者の中山清美さんにインタビューして、いろいろ語っていただきました。考古学というと硬いイメージがありますが、中山さんの語り口の中に昔の奄美人の姿が見えるようで、研究書では味わえないいにしえの姿を想像するダイナミズムを表現することができたと思っています。
ホライゾン第1号
そして連載として、「もうひとつの郷土史―食」を立ち上げ、初回に茶請け味噌を取り上げました。茶請け味噌は様々なものを入れて作られる奄美ではよく食べられているものでしたが、そのおいしさは、都会には知られていません。素朴で美味で奄美の食を代表するものとして、これを初回で紹介しました。執筆者は泉和子さんで、偶然読んだ彼女のエッセイが奄美の食の良さをとてもよく伝えているように感じて、お願いすることにしました。茶請け味噌の思い出に、昔話を入れてもらい、レシピも添えてもらいました。また味噌作りの達人にも取材し、麹の作り方なども紹介しました。これらの手法は、テーマは変えても同じように取材を進めました。現在に生きる過去の知恵と味、その物語という感じでしょうか。郷土料理は、人々が長い間食べることで伝えられて来たものです。そして、奄美オリジナルのものもあれば、沖縄や鹿児島やまた中国などからも影響されているものもあります。いつどのようにして伝わって来たのか、その地とどう違うのか同じなのか等もとても興味深いものでした。奄美独特の「三献(さんごん)」や「鶏飯(けいはん)」の成り立ちは今でも興味深いです。
また、「シマを撮る」として、民俗写真家の芳賀日出男(はがひでお)先生に、40年前の奄美の写真と500字のエッセイを書いていただき、連載することができました。芳賀先生は奄美群島が日本に復帰した直後の昭和30年から32年まで、九学会連合の学術調査団の一員として、奄美群島の記録写真を撮られた方です。日本の写真界でも著名な方でしたが、「奄美は僕の青春だった」と、少ない掲載料でも快く写真の掲載とそれに関するエッセイを引き受けていただき、大変ありがたく頭が下がる思いでした。カメラが一般には普及していなかった時代の島々の写真は、多くの思い出と感動を読者に与えたと思います。また、先生のエッセイは、40年前のことにもかかわらず、まるで昨日見て来たように臨場感にあふれたもので、いつまでも色褪せない名文だと思います。
そのほか、昔話は嘉原かをりさん、祭りや民俗的なエッセイは町健次郎さん、島唄や新民謡は指宿邦彦さん、海の生物は興克樹さん、歴史は遺跡を中山清美さん、近世以降を弓削政己さんに長年お願いしておりました。そのほか群島各地でさまざまな方に取材や執筆をお願いしました。執筆者の皆さんにお願いしたのは、小学校高学年から中学生にわかるくらいの文章で、わかりやすく簡易に書いてくださいということでした。「ホライゾン」はわかりやすく美しくがモットーでした。弓削さんは、「研究者に研究論文を書かせるのは楽なんだけど、研究者が一般の人に向けてわかりやすく書くというのは非常に難しいので、自分にも勉強になる」と喜んでくれました。ご自分で収集した史料を惜しげもなく他の方へ共有されたり、「ホライゾン」で公開されたのが印象深いです。残念ながら、中山さんも弓削さんも相次いで亡くなられました。でも、当時の熱い思いは「ホライゾン」で知ることができます。そのほかにも、取材した様々な夢を追った方々のメッセージを「ホライゾン」に残せることができたということは、意義深いと思っています。
How did you decide on your next theme and the one after that?
テーマというのは、どうやって決められたのでしょうか?
大きなテーマは2〜3号先まではおおよそ検討はつけておきました。ただ、やってるうちに疑問が出てきたり、新しいテーマが見つかったりして順番が変わることもありました、今回これだから、これだけしかやらないわけじゃなくて、少しずつ特集に関連することを集めていきました。そのあたりは臨機応変にして、離島へ取材する場合は経費もかかりますから、他のテーマの取材もしておくようにしていました。程なく私が(一般社団法人)共同通信社の通信員を引き受けたので、新種発見やリュウキュウアユ、人物取材などを「ホライゾン」に生かすこともありました。取材に出かけて、無駄だったと思ったことはなかったですね。現地にいくことで、本には書かれていなかったことがわかったり、大きな収穫がいつもありました。本だけに頼ってはいけないと思いました。
After the theme and information were gathered, Futoshi went to take photos accordingly? Or did you go with him and take photos with him?
テーマと情報が集まった後、それに合わせて太さんが写真を撮りに行きましたか?それとも一緒に行って写真も一緒に撮ったのですか?
最初は一緒に行って、浜田が撮り、私は取材してというのが多かったです。私は方言がわからなかったので、年配の方にお話をお聞きする場合は、浜田に聞いてもらい、訳してもらうということをしていました。方言は、島々によって違うのも面白かったのですが、私は今でも方言は発音できません。なんとなくわかるものもありますが、難しいです。若い頃は一緒に取材して回りましたけど、だんだん材料が揃ってくると私だけで行くことも多くなりました。カメラも良くなってきたので、スナップ写真くらいなら私が撮影することもできるようになりました。
Did you do all the editing by yourself?
編集は百合子さん一人でされたのですか?
企画編集校正など一連のものは初めから全て私がやりました。デザインはラフ的なものや割り付けはしますが、最終的には鹿児島在住のプロのデザイナーさんにタイトル 文字も含めて、20年間ずっとお願いしていました。
当初は、浜田と写真の掲載の仕方で揉めたりすることもよくありました。彼は自分の写真の上に文字を載せるのを好まなかったので、1号出すたびに、ひと騒動でした。もちろんビジュアルを大切にしたいのは同じなのですが、言葉も大事なので、そのスペース確保と写真のスペースとのせめぎ合いでした。そのうち、経費節減もあって私がほぼ一人で企画して取材して、編集していくようになりました。もちろん表紙や大きな写真などは浜田にお願いしていましたが、既存の撮影素材で補うこともできましたし、私が撮影することもできるようになりましたので。
浜田はクロウサギに出会ってからは、もう憑かれたようにそちらに集中していきました。私の場合は、成り行きで「ホライゾン」に行きつき、始めたからには続けなければならないという責任感でやってきました。また、いろいろな方にお世話になって作り上げていますから、そうした協力を無駄にしては申し訳ないという気持ちはありましたね。浜田のような入れ込み方とは違うのかもしれませんが、外から来た人間が奄美で少しでも認められたいと思っていたと思います。人前に出るより黙々と一人でやるのが好きでしたし、仕事をすることで少しでも奄美に近寄りたいと思っていました。続けていくうちに、「島の人より島を知っている」と言われることもあってちょっと面映い気持ちはありますが。
What are some of the aspects of this magazine you are proud of?
この雑誌のどんなところに誇りを感じますか?
当時、全国のタウン誌を対象にNTTタウン誌フェスティバルというコンテストが開催されていて、地域コミュニケーションと地域文化の発展に貢献しているタウン誌を応援するというものでした。「ホライゾン」はタウン誌だとは思っていなかったのですが、実はチャレンジという意味で創刊号から送っていました。
創刊してまもない2年後(1997年)でしたが、全国777誌の中から奨励賞に選ばれたという連絡をいただいた時は、晴天の霹靂というほど驚きました。授賞式は帝国ホテルという豪華さで、審査員は渡辺文雄、赤塚行雄、阿川佐和子、木村晴美などという著名な方々でした。審査委員長の言葉によると、「とても美しい冊子で内容も充実しているため、実は創刊号から注目していた。ただ創刊号で終わってしまう冊子もあるので、続いているのを確認して」 と言われたのを感慨深く思い出します。式典には私が大島紬を着て参加、地元新聞にも取り上げられて、行政や観光関係の方々で盛大に受賞報告会を開催していただきました。賞金は印刷代に消えていきましたが、晴れがましい日でしたね。
ところが、翌年1998年には、882誌の中で部門賞の「地域コミュニケーション賞」を頂くことができました。南の小さな島の年2回しか発行されない薄い冊子が、全国のタウン誌の中でトップ4に入れたことは信じられないほどの栄誉だったと思います。この調子で次は最高賞かと思っていたところで、残念ながらこの大会自体が終わってしまいました。でも、全国で認められたということは、私たちの誇りと大きな記念になりました。
How was it distributed?
「ホライゾン」をどのように広めていきましたか?
奄美群島観光連盟に収めたり、広域事務組合から各市町村の協賛金をいただいている行政や団体へ送る以外は、販売してもいいということになり、空港や書店のほか、通信販売という方法で販売しました。この英断も、当時の奄美群島観光連盟の課長のおかげです。各販売店では、島おこし冊子ということで、卸し価格も通常より割高にさせてもらい、協力していただきました。売れた分が私たちの利益ということでしたが、売れるかどうかもわからないから1号を1,000部しか作らなかったのですが、思いがけずすぐ売れてしまいました。仕方なく、自腹で2,000部を増刷しました。経済的には痛い出費ですが、嬉しかったですね。2号も少し多めに印刷したのですが、それも売れて2号も増刷しました。そこで3号からは結構多めに印刷することにしました。
観光連盟や広域事務組合からは、関係機関に送っていただいているので、私たちは空港や各書店のほか、定期購読者を募集しました。200人くらいの定期購読者の方々がいました。アンケートやプレゼントコーナーを設けたので、ハガキで感想などが届きました。また奄美で地元の特産品を送る時に、この「ホライゾン」を一緒に入れて送るということもよく聞きましたし、全号を持っていますと自慢げに言ってくださる方もいて、心強く思いました。
また、ある全国団体の会合が奄美であった時に、講師のかたが壇上で「ホライゾン」を掲げて、奄美にはこんな素晴らしい冊子があると褒めてくださったそうです。また聞きではありますが、嬉しかったですね。創刊号から奄美の図書館や国立国会図書館に送っています。
終刊してからですが、全号を電子版にしませんかと誘われ、アマゾンなど大手の媒体で電子書籍として販売されています。電子版はそんなに売れているわけではありませんが、すでに絶版になっている号が多いので広告も含めて、全号がすぐ見られるようになっているのは、大変ありがたいことだと思っています。
Was there any voice from readers that made an impression on you?
なにか印象に残っている声がありますか?
すごく褒めてくださる言葉が多かったですね。タウン誌大賞の授賞式で言われた言葉は宝物です、「南の風が吹いている」と言われてドキドキしました。また、自分たちは島出身だけど、島のことについて初めて聞いたとか、次はこんなのもやってくださいと書かれていたり、間違いも時々指摘されたりしました。校正ミスもありましたが、大体はシールを貼って修正していました。
創刊15周年の年は、薩摩侵攻400年という節目でしたので、歴史シンポジウムを市内ホテルで開催しました。講師には、歴史研究者以外にも食や島唄、民俗学の観点からも登壇していただきました。中でも大きな収穫だったのは、郷土史家の弓削政己さんと、島唄研究の第一人者であるの小川学夫(おがわひさお)さんの言葉です。
この日、小川さんは所用のため欠席されたのですが、メッセージを寄せられたので司会だった私が読み上げました。内容は「奄美は薩摩藩に虐げられたので泣き歌的なものが多いと言われているが、自分はそうは思わない。島の歌は本当はもっと明るいにぎやかな、エネルギッシュな歌が根本だと思っている。苦しい時代の中にあっても奄美の人たちは明るく生きてきたのだと言いたい」というようなことが書かれていました。すると、弓削政己さんが、「分野は違っても小川さんが僕と同じ考えだということに感激した。黒糖地獄と言われた中でも、島人は米を作ったり芭蕉糸や材木を琉球に売って稼いだりしている史料もある。人口も増えていたし、板付け舟も多く作られている。島人は過酷な時代でもエネルギッシュにしたたかに生きていた」と満面の笑みで言われたことが、強く記憶に残っています。弓削さんは、「ホライゾン」の中でもこうした史料やメッセージを残してくれましたが、もっと深めていくべきだと思っています。
終刊にした今でも、「ホライゾン」のファンでしたという方はいらっしゃいます。だから、いつまでも編集長という肩書きをおろしたくないですね。先日、喜界島の図書館に伺った時も、図書館の方から「ホライゾン」の編集長の方ですよね、などと声をかけられて、ちゃんとしなきゃと思いました。
郷土史家の弓削政己(ゆげまさき)さんと
How did you choose what topics/aspects of the islands life, culture and environment to cover not just for an island but an archipelago of eight inhabited islands? Did you have contributors from the other islands sending stories?
8つの有人島の島民の生活、文化、環境のどんなトピック をどのように選択しましたか?
奄美群島観光連盟の方でなるべく群島に渡るテーマをということだったので、群島に共通するもので、なおかつ奄美の代表的なものを特集として選んでいきました。文化では古代から中世、近世、近代の他、戦争遺跡や、日本復帰運動などの歴史もテーマにしてきました。島々の祭り、郷土芸能、島唄、新民謡、三味線や太鼓などの楽器、演劇、方言、郷土料理では野菜、果物、調味料、豚や魚、鶏、海藻類などのほか素材を活かした創作料理も紹介してきました。
またケンムンは好きなテーマの一つで、好きが高じて奄美群島全体や幼稚園、学校など老若男女に呼びかけて 「ケンムンフェスタ」を4回開催しました。ケンムンシンポジウムや絵画コンクール、ケンムン島唄、ケンムンバスも登場させることができ、妖怪のキジムナーがいる沖縄との妖怪交流ができたのも成果でした。伝説、昔話、相撲、ノロ神、ユタ神のこと、また特産品として大島紬と紬柄、芭蕉布、夜光貝や工芸品や高倉などでも比較することができました。
第二回ケンムンふぇすた
第三回ケンムンふぇすた
自然の括りでは、森がある高島と珊瑚礁でできた低島に分かれ、生物相もかなり分かれていきます。わかりやすいのが、ハブですね。ハブがいる島といない島に分かれますが、有人8島の中でもそれぞれが違っていますから面白いです。それぞれを群島全体で調べていくと、文化的には大和文化圏と琉球文化圏におおよそ分かれていきます。ただ、微妙に重なったり、独自なものが出てきたりと、そのあたりがとても面白いですね。それらを少ない紙面で見える化していくのが醍醐味でした。簡単に奄美といっても、島々で違いが出てきます。その違いを紹介するのがとても面白いです。比較してこそ自分たちの島の特徴が浮かび上がってくるのですから。
各島々を取材しつつ、 それぞれの専門の方々にも執筆していただくこともよくありました。「ホライゾン」で執筆あるいは取材することで、奄美の人々が発信しているということになると思います、私はあくまで黒子に徹しようと思いました。特集はほぼ私が取材して書いていましたが、編集部取材とし、私の名前は出さないようにしました。同人誌的に思われたくなかったというのもありました。
What were the challenges of publishing such a magazine?
このような雑誌の出版に伴う課題は何でしたか?
経費をどう出すかですね。沖縄の雑誌編集者と話したことがありましたが、「どんないい企画があっても広告が取れないと発行ができない」といっていました。幸い私たちは、公的な協賛金と多少なりとも広告掲載料をいただくことができたし、販売もできましたので、執筆者の方にも少ないですが、原稿料もお支払いできたし、印刷代、デザイン料も支払うことができました。ただ、島おこしの発想で頑張っていたので、私たちの工賃は度外視しての発行でした。
How long did the magazine run and why did it stop?
雑誌は何年続きましたか、また休刊の理由は何ですか?
ちょうど20年目で休刊にしました。その理由は、いろんなフリーペーパーが出てきたし、ホームページも結構いろいろ出てきたので。一番初めの目標の「奄美からの発信」というのは、もう若い方たちが違う形で発信されているので、ある時代の役目は終えたかなと思い、休刊という言葉を使いました。実際は、終刊でしたが。
The magazine is now shared in an online platform in both English and Japanese. Why is it important to also share the stories also in English?
この雑誌は現在英語と日本語の両方のオンラインで見ることができますが、英語でも読めるようにすることがなぜ重要だと思われますか?
「ホライゾン」のホームページを日本語と英語でも作っています。これはメディア の研究者であるエバンゲリア・パポサキ先生の発案で制作をしました。「ホライゾン」の取材対象は膨大なので、ホームページに全てを反映させることはできませんが、海外の方にも是非見ていただきたいものを厳選しています。
「ホライゾン」ホームページ画面
メディア学研究者のエヴァンゲリア・パポツァキ先生と
エヴァンゲリア・パポツァキ先生と、鹿児島大学名誉教授の桑原季雄(くわはらすえお)先生を迎えて
奄美大島と徳之島、沖縄北部および西表島は2021年に世界自然遺産に登録されました。このことで、世界の方々が奄美に目を向けてくださることが多くなっていると思います。こうした時期に奄美を世界の方々にもっと知っていただくことができればいいなと思い、準備をしてきました。紙媒体と違って、映像を入れることができたので、奄美の美しいダイナミックな自然をドローンなどを使った立体映像で見ていただくことができたのは、良かったと思っています。
おかげさまで、このHPが「鹿児島ICTel大賞2021」で大賞を受賞することができました。選考理由は①画像の美しさ②情報量が豊富で多岐にわたったコンテンツ③文章が的確で読みやすい④日本語と英訳による表記―などだったようです。
奄美の魅力は自然だけではなくて文化も誇るべきものがたくさんあり、また文化と自然が密接につながっていることだと思います。これらを世界の人にもみていただきたい。日本だけではなく、世界の人にも見ていただきたくて英語でも読めるようにしたのでした。今は内容を少しずつ追加しているところです。
特に自慢なのは、島唄の実演です。YouTubeでも発信しているので、海外の方も結構きかれているようです。英訳は、喜界島出身の東洋大学名誉教授で島唄愛好家である郡山直(なおし)先生です。島唄の実演者は、奄美民謡大賞という奄美島唄界の最高賞を受賞されている方々で、特に人気と実力がある3名の唄者にお願いしました。ホライゾンHP 島唄紹介
左から唄者の中村瑞希(なかむらみずき)さん、西和美(にしかずみ)さん、前山真吾(まえやましんご)さん
Are there any similar magazines now produced on the islands by locals?
地元の人によって現在出版されている「ホライゾン」と似たような雑誌はありますか?
「ホライゾン」と同程度の雑誌はないと思います。「ホライゾン」は奄美の文化と自然や歴史、生活などかなり充実して発信できたと思っています。貴重な資料や写真も掲載できたし、年2回と言っても私の中では相当な比重を占めていましたから、スポンサーがいないとなかなか似たようなものは作れないのではないでしょうか 。ただ、新しい冊子は、見てみたいですね。若い方がどのように奄美を料理して発信するのか見たいです。
What do you think is the significance of such a magazine now with the islands being recognized as UNESCO Natural Heritage Sites?
奄美群島がユネスコ世界自然遺産 として認識されている現在、このような雑誌の重要性についてどう思いますか?
奄美は自然だけではなくて、自然と文化が密接に繋がりを持っているということを、「ホライゾン」でもオンライン・プラットフォームでも感じて欲しいと思います。人間の生活自体ももちろんそうですが、自然と生活や文化はつながっているものです。それはどこの国でも同じではないでしょうか?「ホライゾン」は、自然と文化とそこに生きる人々がテーマでした。どれか一つではなくて、それらがつながっているということを認識してもらえるのではないかと思っています。
沖縄は日本に復帰後、産官学が揃っていろいろな人が沖縄を研究するようになりました。奄美は大学も研究施設もほとんどないのが実情ですので、まだまだ研究途上のものもいっぱいあると思います。そういった意味では「眠れる獅子」という言葉が当てはまるかもしれません。でも、現在は眠れる獅子がうっすら目を開けたくらいでしょうか(笑)
本当の獅子の勇姿とは、どんな姿なのでしょう。いつかホームページ上で見られる日を心待ちにしています。
エヴァンゲリア・パポツァキ先生と私たち

