独特の文化

シマを撮る

なつかしの奄美群島

私は1955(昭和30)年から1957年まで、奄美群島に4回、通算182日間滞在して記録写真を撮影した。当時は九学会(きゅうがっかい)連合奄美大島共同調査団員の一人だった。九学会連合とは、人類、考古、言語、宗教、民族、民俗、社会、心理、地理の九つの学術団体からなり、いずれもフィールド・ワークに力点をおいて人間生活を研究の対象としている分野であった。当時の若き新鋭学者がメンバーで、このなかで私は社会科学による記録写真とは何かを、奄美群島をテーマにして学んできた。

3年間で撮影したモノクロ・フィルムは17,000枚を超えた。現在も芳賀ライブラリィ−に保管されている。

撮影を初めた一年間はきわめて順調ではなかった。それは島の人にとって写真とはハレの日の結婚式とか学校の卒業式に正装をしての記念写真であった。汚れた仕事着で都会から来たカメラマンに写されるのは恥だったのである。どこでも、誰にでも、まずその諒解と説得からはじまったが、なかなか納得してもらえなかった。

1955年撮影の写真集『奄美の島々』が毎日新聞社から、1956年撮影の「珊瑚の島」が平凡社から刊行され、その生活記録が国会に伝わり、奄美群島振興特別措置法の動きとなって、はじめて島の人びとに記録写真の意味を知ってもらえるようになった。

今、この時代の島の生活の写真を顧みていただくと、どの一枚にも国が奄美の社会基盤にどんなに無関心だったかの歴史である。その苦渋のなかで、親に尽くし、子を育て、母国への復帰を必願として働いてきた姿である。

当時の島一番の立派な風景は大和村の群倉であった、働く人の生活の歌が聞こえていた。残念ながら今その面影はない。

宇検村田検の村の中の最大の交通路は一本の小川で、鋪装された道は一筋もなかった。徳之島の人びとの島内交通は米軍の残した改良ジープだけだった。喜界島の湾の波止場は干瀬になると船が着岸出来ず、島人が木組みの桟橋を手作りでつぎ足したものである。

沖永良部島和泊町の畦布(あぜふ)には立派な泉があったが、水道を自宅に引いている家は一軒もなかった。

与論島には便船の来ない日がしょっちゅうあった。その度に波止場で悲嘆にくれ、涙を流し、立ちつくしている人の後姿が忘れられない。

 

奄美大島大和村の群倉(1955年)
わが国最大の倉の景観であった。働く人の生活の歌が聞こえてくるではないか。今、その面影はない。

沖永良部島和泊町の泉(1956年)
和泊町畦布には立派な泉があった。人も牛も体を洗った。女性たちは月夜の晩に入ったという。

新穂花(あらほばな)

新穂花(あらほばな)

1955(昭和30)年7月28日、私はいきなり名瀬市大熊(だいくま)のノロ(※1)の祭り「新穂花」に連れて行かれた。当時は九学会連合奄美大島調査団の写真班だった。

なにもしらない私が眼前にした光景は、白く美しい鳥の尾羽根とヒカゲノカズラで髪をかざり、浄衣(じょうえ)に水晶玉の首飾りをかけた少女のノロ神の姿であった。補佐役のウッカンは、ノロ神を助けて稲穂の先を神酒にひたす収穫儀礼を行っている。両脇にイガミという役の女性が11名、また2名のグジヌシと村長の3人の男性がノロ神に対座している。

祭りの女性たちは「おもろ」(※2)の合唱をはじめた。20分以上もつづく歌声を聞きながら、伝承をしっかりと見につけて暮らしている奄美の女性の素晴らしさに私は感動した。

新穂花(あらほばな)

(※1)琉球王国時代に任命され公的な儀礼祭祀を司る神女

(※2)おもろ/沖縄・奄美(あまみ)群島に伝わる古代歌謡

喜界島の馬

1955(昭和30)年7月、名瀬から乗った便船が喜界島の湾の波止場に着いた。荒木(あらき)の集落へとむかう。中里(なかざと)あたりにさしかかった時、颯爽と駈ける騎馬姿の女性に出会った。

その馬はかわいい仔馬を連れていた。喜界島は馬の名産地と聞いている。これがその「キャーマ;喜界馬」なのか。当時奄美群島には約3,000頭、喜界島だけでも1,700頭いたのである。田畑の農耕にも砂糖黍の汁をしぼり取るためにも馬は人間の3倍の力を発揮していた。しかもキャーマは隆起珊瑚礁の牧草地で飼われていたので、ミネラルとカルシウムの入った青草をたっぷり食べて骨が太く丈夫だったという。

沖永良部島では、水を引いた田に馬や牛を放し飼いにして入れて、自由に遊ばせる耕作法があった。「ふんごみ」といわれており、牛馬が歩きまわることによって、土の塊をくだき、脱糞すれば肥料になった。

1956年代に入ると耕運機、化学肥料、農薬の時代になって、馬は全く淘汰されてしまった。現在ではキャーマは絶滅(※1)、外国産のポニー二頭と笠利町にトカラ馬が一頭いるのみと聞く。奄美ではあの働きものの馬の姿を見たことのない子どもたちがたくさんいるだろう。

(※1)喜界馬は体高100〜120㎝。暑さに強く、農耕馬や軍馬として活躍した。現在、日本の在来馬として鹿児島県の天然記念物であるトカラ馬は、絶滅した喜界馬の子孫。喜界馬は明治30年にトカラ列島の宝島に渡り飼育されていたが、発見された1952年(昭和27年)は、奄美群島が米軍政府下であったため、トカラ馬と命名された。(ホライゾン編集室)

喜界島の馬/ムシロの背当てに、作業用の鞍(ウムゲー)がみられる。喜界島独自のオモガイをしているのも特徴。※(この喜界馬の品種は、サラブレッドとアングロ・ノルマンの両方の血が入っているものと思われる(獣医師/高坂嘉孝談)

沖永良部島の「ふんごみ」

浜下(はまお)りのご馳走

奄美での浜下りは50年以上たった今も思い出して楽しい。私が訪ねたのは徳之島の井之川(いのかわ)で、1957(昭和32)年8月15日のことであった。

夕方からハラ(※1)ごとの集まりである。まずハラの長老が一本の丸太棒を浜辺に立てた。そのもとに浜の珊瑚石で釜をこしらえ、先祖に焼酎の神酒と一皿の御馳走を供え、丁寧にお参りをした。

海岸にはハラごとにハマヤドリという小屋を作って(簡単な竹竿でのしきり)、そのなかに男の座と女の座ができた。

それぞれ家から持ち寄った重箱の御馳走を分けあって食べる。「一重一瓶(いちじゅういちびん)」である。だから御馳走の味は家ごとに異なる。豚の味噌漬け煮、つきあげ、かまぼこ、野菜の天ぷら、焼き魚、白飯や赤飯、漬け物など。見た目には同じでも、食べてみると味が違うのだ。それが一重一瓶の楽しいところだ。

ある女性のお年寄りの前に若者たちが行儀良く座り、お辞儀をして、盃一杯の焼酎をカラカラからいただいていた。そのお年寄りが携えてきた焼酎は古酒で特に美味しいと定評のあるものだった。私もいただいた喜びは忘れられない。奄美の「一重一瓶」の美風をいつまでも続けて欲しい。これは立派な伝統文化である。

(※1)奄美群島で使われる血縁のある親族関係を示す言葉。喜界・奄美ではヒキ、徳之島以南では多くハラという言葉が使われる。

徳之島井之川の浜下り

どこの家も重箱にごちそうを詰め、焼酎はカラカラに入れてくる(一重一瓶)

若き日の暗川(くらごう)

奄美群島の珊瑚礁の島(喜界島、沖永良部島、与論島)には、いつも水が流れている川らしいものは地図にはない。雨量は東京の倍ほどあっても、地面に吸い込まれてしまうのである。「暗川(くらごう)」と呼ばれ、暗い穴の底で泉となって吹き出し海へと流れていく。昭和30年代(1955〜1964)には島の村で暮らしている人たちは、この水を汲んで生活していた。

水を汲みに行く役目は娘たちか若い嫁の仕事だった。大きなバケツや樽に水を満たすと10キロ以上になる。それを上手に頭上にのせて、ぬれてすべりやすい石の階段を登り、さらに坂の道をあがって家まで運ぶ。なかには赤子を背中にくくりつけて水を運んでいる若い母親もいた。飲料水だけではなく風呂水にも使うので、一日に5〜6回も暗川におりて行く。島の嫁たちはこの水遊びが一人前に出来なければ嫁のもらい手はなかった。女の子は3〜4才の頃から頭上運搬の運び方を仕込まれて育ったのである。

沖永良部島知名町の住吉(すみよし)の暗川で、ぬれた階段をあがってゆく頭上運搬の女性たち。

沖永良部島和泊(わどまり)町の暗川で洗濯をし、飲み水を汲んでいる島の女性たち。意外にその声は明るくにぎやかだった。

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