文化と歴史
奄美群島歴史概略(古代~中世)
奄美群島の古代(奈良時代~平安時代:AD8~14世紀)
ヤコウガイの交易は、古代並行期にさらに盛んになったと推定されます。美しい真珠層をもつ特徴から、ヤコウガイは古来より装飾品として活用されてきましたが、平安時代の文献には、貴族がヤコウガイを利用していたことが記されており、9世紀以降には大和を対象にしたヤコウガイ交易があったのではないかと考えられているからです(※1)。
7世紀から10世紀、奄美の人々は海岸に近い砂丘地での生活を送っていました。その代表である奄美大島の小湊フワガネク遺跡では、大量のヤコウガイとともにヤコウガイ製の匙(スプーン)やその割取途中で失敗した貝殻片が見つかっており、ここにはヤコウガイ製匙の製作場があったと考えられています。奄美大島でいくつか見つかっているヤコウガイを大量に出土する遺跡は、交易のためにヤコウガイを集めた場所で、こうした記録を裏付ける証拠だと考えられています。ヤコウガイが多く出土する遺跡からは九州の焼き物や唐代中国の古銭が発見されることが多いので、これらはヤコウガイの交易と関係して島外から運ばれてきたのかもしれません(※2)。
11世紀前後、奄美群島では農耕が始まり、徳之島ではカムィヤキと呼ばれる
固い陶器が焼かれるようになります。カムィヤキの主な種類は壷、鉢、碗で、九州産の石鍋、中国産陶磁器とともに琉球列島一帯で食器として使われました。このことは特定の地域で大量に作られた道具が遠い場所へと運ばれる商品経済の開始を表しています。
奄美大島にある焼内湾内の海中からは、13世紀前後に製作された多くの中国陶磁器が引き上げられており、中国から九州の博多へ向かう貿易船が奄美群島の近くを航行していた可能性も考えられるようになりました。
喜界島には九州と琉球列島を結ぶ交易拠点とされる城久遺跡群が繁栄して、奄美大島には赤木名城跡のような大きな城が築かれるようになりました。
奄美群島にはヤコウガイに代表される特産品をめぐって様々な人々が行きかい、島々の社会が発展していく様子を今に伝える古代・中世の遺跡が多く残されています。