文化と歴史

奄美群島歴史概略(明治〜昭和における戦争)

東シナ海に飛び石上に連なる奄美諸島は、「道之島」とも呼ばれ、遣唐使の航路にもなったようです。明治時代には軍事基地として早くから目をつけられ、特に瀬戸内町の大島海峡はリアス海岸に囲まれた自然の良港が多く、旧海軍連合艦隊の集結地としての役割も担うようになっていきました。1908(明治41)年に旧海軍の大演習が行われ、同指揮官の東郷平八郎が大島海峡の軍事基地としての適正を視察。旧陸軍への要塞構築も推奨したとされています。

軍事要塞となった大島海峡一帯(奄美大島瀬戸内町)

大正年間になると、大島海峡一帯は軍事要塞となります。また、本土最南端の水上航空基地がおかれ、「震洋(しんよう)」という旧海軍の特攻艇も配置されました。現在でも、観測見張所跡や弾薬庫跡、兵舎跡など、多くの戦跡が残されています。

 

復元された特攻艇「震洋」(奄美大島瀬戸内町)

太平洋戦争末期、沖縄では激しい地上戦が行われ、本土防衛の拠点となった鹿児島県には旧陸海軍の特攻機地が作られました。

喜界島には1931(昭和6)年に旧海軍の不時着飛行場ができ、1944(昭和19)年には同航空基地が完成。鹿屋基地から、沖縄へ向かう海軍特攻機の燃料補給や機体整備のための前進基地となりました。徳之島にあった旧陸軍飛行場が空爆により使用不能になってからは、両軍の特攻機や戦闘機が離発着をしたため、喜界島空港付近は米軍機による激しい空襲が繰り返されました。現在でも、戦闘指揮所や掩体壕(えんたいごう)跡が残されています。

戦闘指揮所跡(喜界島喜界町)

掩体(えんたい)壕(喜界島喜界町)

徳之島には、1944(昭和19)年に旧陸軍浅間(あさま)飛行場が完成。本土からの飛行機や特攻機も離発着していたため、滑走路は連日、激しい空爆を受け、1945(昭和20)年4月中旬には、不時着のみの使用となりました。滑走路の一部は、現在は「平和通り線」として活用されています。また、島の沖では「富山丸」など魚雷攻撃をうけた軍用船や疎開船が多く沈んでいるようです。

沖縄に近い沖永良部島では、米軍の艦船や哨戒機が常時警戒している状況が見えたようです。与論島は沖縄最北端の辺戸岬と30㎞しか離れていないため、米軍機に撃墜される特攻機や、脱走してくる日本兵も目撃されました。

戦艦大和慰霊碑(徳之島伊仙町)

疎開船の対馬丸慰霊碑(奄美大島宇検村)

写真・解説/ホライゾン編集室

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