文化と歴史

奄美群島の郷土芸能

郷土芸能鑑賞のツボ

奄美群島の伝統行事の日取りは、今も旧暦で行っているところが少なくありません。その「島ごよみ」のなかでも、特に旧暦8月~9月の夏から初秋は集落の豊年祭や敬老会のシーズンで、郷土芸能があちこちで披露されます。その鑑賞のツボを紹介しましょう。

奄美市笠利町の「佐仁の八月踊り」、徳之島伊仙町の「目手久立踊」は県の文化財に指定されています。

女性が太鼓を持ち、男女が円陣を組み歌い踊る「佐仁の八月踊り」(奄美大島奄美市)

まず、代表的なものといえば、奄美群島北部の島々で集落ごとに伝承されている「八月踊り」。これは琉歌と同じ「八八八六調」の詩型を持つ伝統曲を、クサビ締め太鼓を手に輪になって踊ります。特に、八月踊りという名称は、徳之島では「七月踊り」または「千人踊り」などと呼んでいますが、徳之島町の「井之川夏目踊り」のように、夜を徹して朝まで踊るところもあります。

他にも集落で伝えられてきた伝統曲は、奄美大島では住用町市集落のように、初夏の害虫除けの浜おれという行事で小石を受け渡しながら遊ぶ「米搗き踊り」や、笠利町節田に伝わる「節田マンカイ」のように、冬場の旧正月に対座して遊ぶ形式によっても伝えられています。郷土芸能といえば、観客と披露する者に分かれがちですが、これらは老若男女が参加します。つまり、観客という立場がない点こそが鑑賞のツボなのですが、鑑賞する間もなく参加していることになっているかもしれません。

家々を回り情熱的に夜通し踊られる「井之川夏目踊り」。少し大きめの太鼓は男性が打つ(徳之島徳之島町)

喜界島の八月踊りはテンポが変わらず、女性が踊りの主体という。老若男女が土俵を囲み踊る(喜界島喜界町)

「米搗(つ)き踊り」(奄美大島奄美市)は、砂の上で輪になり、こぶし大の石を歌いながら右手で次々回して遊ぶ。

男女の出会いの場でもあった「節田(せった)マンカイ」。マンカイは招く意味で、唄をかけあいながら手踊りで楽しむ(奄美大島奄美市)

旧暦八月初丙のアラセツの日には、龍郷町秋名で「ショチョガマ」と「平瀬マンカイ」の行事があります。前者は、早朝に男たちが片屋根の上に乗り日の出とともに揺り倒し、後者はその夕方に、浜辺の二つの聖なる岩の上で、琉球時代のノロの祭りを彷彿させる神役が海の彼方に祈りを捧げます。双方ともに儀礼・神事的な色彩のなかに伝承されてきた歌と所作があります。

収穫に感謝し、五穀豊穣を願う稲作儀礼である「ショチョガマ」(奄美大島龍郷町)。ショチョガマと呼ばれる片屋根には男性だけが乗り、稲魂(にゃーだま)を招き、ヨラメラの掛け声で倒す。南側に倒れれば豊作とされる。倒れた屋根の上では、八月踊りが踊られる。

平瀬マンカイ(奄美大島龍郷町)は、ショチョガマの日の夕刻の満潮時に行われる儀礼。ノロ役たちが海岸の岩に立ち、歌を掛け合いながら海の彼方から稲魂(にゃーだま)を招く。その後海岸でスス玉踊りをして、用意した弁当をみんなで食べる。季節の変わり目<新節(あらせつ)>に神を迎えて遊ぶという古代的な要素を持つといわれる。ショチョガマとともに国指定重要無形民俗文化財

ムチモレ踊り(奄美大島大和村)は、風呂敷をかぶり陽気なドンドン節を歌い踊りながら各家々を回る厄払いの踊り。ムチムレとは、「餅貰い」の意味。昔、大火があったとき、田んぼの泥を投げて消火したことから、餅を泥に見立てお祓いをしたという。

奄美群島の仮面をかぶる郷土芸能も個性的です。日本で仮面といえば、神楽や能に代表されるように木製が主流ですが、奄美群島では紙で作ります。奄美大島南部の「油井の豊年踊り」、加計呂麻島の「諸鈍シバヤ」、与論島の「与論十五夜踊り」は国や県の文化財指定を受けています。それぞれ作り方も表情のタッチも異なっていますが、仮面をつける演者がすべて男性であること、野外で披露されること、〈南〉の琉球文化と〈北〉のヤマト(薩摩)文化の影響を受けてきたとみられる複数の演目で構成されていることが共通しています。

油井の豊年踊り(奄美大島瀬戸内町)は、稲作の収穫を終え豊年を神に感謝する行事。収穫後の諸作業をユーモアと色彩豊かに寸劇風に芸能化していて、これは、最初に行われるシシが現れる「綱引き」

「油井の豊年踊り」のなかで、稲すりの様子を表現したもの。中央の女性は臼の役

諸鈍(しょどん)シバヤ(奄美大島瀬戸内町)は、すべて男性で、紙面をつける。諸鈍集落は古くから海上交通路として栄え、早くから大和文化と琉球文化の流入があり、双方の芸能が融合して完成したといわれる。踊り、狂言、人形劇などを取り入れた芸態は室町時代の古歌舞伎を思わせるともいわれる。一説には、1185年に壇ノ浦で破れた平資盛(すけもり)が、集落の人々と交流を図るために披露したのが始まりといわれる。国指定重要無形民俗文化財

与論十五夜踊り(与論島与論町)は、島中安穏と五穀豊穣を祈願する祭事で、年3回、地主(とこぬし)神社で踊られる。一説によると、世之主が三人の息子に大和、島内、琉球の踊りを調べさせ、1561年に創始したといわれる。一番組は大和風、二番組は琉球風の踊りで構成され、男性のみで演じられる。日琉芸能史上貴重なものとされ、国指定重要無形民俗文化財

奄美群島の郷土芸能の魅力のひとつは、この〈南〉と〈北〉からの文化的影響を、絶妙なさじ加減で島独自のものに創りあげてきたことです。たとえば、沖永良部島を例にあげると、知名町に伝わる「上平川の大蛇踊り」は、琉球組踊の「執心鐘入」と日本の能「道成寺」に通じるモチーフを持っていますが、屋内の舞台ではなく、野外に大掛かりなやぐらを組んで大蛇を空中に舞わせ、そこに歌と踊りを交えた演劇仕立てになっています。また、同島各所に伝わる「ヤッコ踊り」は、近世に薩摩地方から伝わったものですが、そこに琉球系の歌を融合させるという独創性で人々を楽しませます。こうした〈南〉と〈北〉とのつながりを探る観点もまた、奄美群島に伝わる郷土芸能の鑑賞のツボなのです。

野外劇風の上平川大蛇踊り(沖永良部島知名町)。女人禁制の寺に美しい女性に化けた大蛇が一夜の宿を頼みに訪れるが、その後大蛇になって大暴れする。帰って来た坊さんがお経で退治し、人々が総踊りして祝うという筋。クライマックスに出現する大蛇は火を吹き、迫力満点。

ヤッコ踊り(沖永良部島和泊町)は、400年以上前、踊り好きの人が沖縄で習い覚えた4つの踊りを組み合わせて、ヤッコと名付けたといわれる。農村青年の若さと情熱がユーモアたっぷりに表現される。

稲すり踊り(奄美大島宇検村)は、稲すりの工程をそれぞれの役目ごとに異なった動作で踊るところに見応えがある。

イッサンサン(徳之島伊仙町)は、イッサンボと呼ばれるカカシを先頭に、子供たちが集落の家々を祝福して回る豊年祭り。イッサンボは福の神を意味しているという。

解説/町健次郎
写真/ホライゾン編集室

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