文化と歴史

奄美群島歴史概略(米軍政府下と日本復帰運動)

1945(昭和20)年、日本はポツダム宣言を受託し、戦争は終わりました。奄美群島でも武装解除後、復員兵や引揚者が続々と帰島してきました。ところが、喜ぶ間も無く、1946(昭和21)年2月2日には、GHQ宣言により、奄美群島を含む北緯30度以南の南西諸島(トカラ列島、奄美群島、沖縄、小笠原諸島)は、日本本土から行政分離され、米軍政府の支配下となりました(2.2宣言)。琉球、薩摩の支配が終わっても、奄美群島は米軍政府下のもと、8年間の新たな苦難の道を歩み始めることとなったのです。

2.2宣言により、奄美諸島は日本国旗を掲げることは禁止され、広く使われていた日本銀行の金種は、米軍が使用していたB円軍票に切り替わり、物価や労賃は統制され、本土との通信や交通が遮断されました。物資の配給はあったものの日常生活においても様々な物資不足に悩まされ、戦後めまぐるしく変化していく日本のなかで、島々は行政や経済、産業、教育、文化、福祉など様々な点で孤立していきました。

当初、軍政府は民主主義の実現に努める姿勢をみせていました。閉ざされた島のなかで、文化に飢える人々は自分たちで音楽や演劇、出版などを起こしていきました(奄美ルネッサンス)。しかし、将来を憂い、教科書の調達のためや、不足する生活物資のために、小舟を操って国境線を超え、本土へ密航・密貿易をする人々も多くいました。

1949(昭和24)年に発表された「配給食糧3倍値上げ」は島民の生活をさらに追い詰め、くすぶっていた日本への復帰を願う運動は野火のように広がっていきました。

ジープを連ねて島に入る米軍(提供/奄美市)

戦後のかやぶき校舎(提供/鹿児島県)

奄美大島日本復帰協議会議長の泉 芳朗(ほうろう)をはじめとするリーダーのもと、日本へ復帰したいという思いで奄美群島民の心はひとつになり、全郡民の99パーセントの誓願署名や各方面への陳情・誓願書、総決起集会、集団断食祈願などで平和的に運動は展開されていきました。また本土の奄美出身の有識者も一丸となって後押しし、国会でも討議されていくことになります。奄美群島の復帰運動が、平和的な社会運動であったことは、歴史的にも特筆すべきことでした。

復帰運動のリーダー
泉 芳朗(いずみ ほうろう)

断食祈願(提供/奄美市)

サンフランシスコ講和条約に、北緯29度以南が信託統治になるという草案が出されると、復帰運動は過熱さを増し、幼い子供や老人まで、提灯を手に連日、復帰運動の行列に加わり、陳情や総決起集会、署名運動などが熱いうねりとなって展開されていきました。こうした多くの島民や出身者の尽力は、当時の吉田茂首相に面会陳情を促し、ルーズベルト夫人への直訴などの成功へと導きました。1952(昭和27)年8月、ダレス長官により、突如、奄美の日本返還が伝えられ(ダレス宣言)、1953(昭和28)年12月25日、北緯27度以北の奄美群島は鹿児島県大島郡として日本へ復帰。出身者を含む全島民の思いが、歴史を動かした記念すべき日となりました。

12月25日は、「奄美群島復帰記念日」として、現在でも語り継がれています。

(小笠原諸島は1968年、沖縄県は1972年に復帰)

ダレス声明に喜ぶ群民(提供/鹿児島県)

復帰記念の集い

解説/ホライゾン編集室

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