文化と歴史
奄美群島歴史概略(近代)
1868年に明治維新となり、薩摩藩による支配は終わりを告げます。しかし、黒砂糖専売はしばらく続きます。1869年(明治2年)当時、鹿児島特産品の入金額のうち、奄美の黒糖は約35パーセントも占めていたため、明治時代になっても、奄美諸島は砂糖黍作付けを継続します。
1871(明治4)年、薩摩藩は廃藩置県後に鹿児島県となります。1872(明治5)年には自由売買の契約が許可されますが、1873年には島役人と黒糖専売の「大島商社」の契約が締結され、1874年からはこの商社の専売制が確立しました。
その後、島民や指導者の丸田南里らが黒糖の自由売買を提唱し、「大島商社解体」の運動を起こします。1878(明治11)年に大島商社は解体、翌1879(明治12)年から奄美の島々はようやく、黒糖の自由売買となりました。
また、その後、商人たちへの商取引改善の運動も始まります。
明治時代になると砂糖は一般国民にも嗜好されるようになり、黒砂糖の人気は下降します。1882(明治15)年ごろには、輸入した外国産砂糖が国内産の2倍近くとなり、国内での白砂糖生産が奨励されました。
黒糖で有名な奄美ですが、白糖が生産されたこともありました。1865(慶応元)年にはイギリスのマッキンタイラーとウォートロスを雇い、瀬戸内町の久慈や龍郷町の瀬留、宇検村の須古、名瀬のらんかん山の麓などで白糖製糖所が建てられましたが、手間がかかることや台風被害、燃料不足などでうまくいかなかったといわれています。(ホライゾンvol20.およびvol30より抜粋)