文化と歴史

奄美群島歴史概略(近世〜近代)

14世紀初頭には、薩摩半島の千𥧄家(ちかまけ)などの勢力は、奄美諸島と交易圏にあったといわれています。与論島と沖永良部島は、早くから琉球の支配下でしたが、奄美諸島は1609年の薩摩藩による奄美諸島・琉球侵攻(侵略)まで、琉球支配下となりました。

ノロがもつ神扇(瀬戸内町立図書館・郷土館)

琉球王朝は奄美を支配下に治めると、それぞれの島をいくつかの間切(まぎり/現在の市町村などの行政区域のこと)に分け、各間切は総責任者の「大親(ふうや)」が統治し、事務整理の「目指(めざし)」、書記の「筆子(ふでこ)」、集落の長である「掟役(おきてやく)」などの役人を置いていました。

こうしたなか、薩摩藩は、支配する武士へ与える所領の不足や、幕府からの「御手伝普請(おてつだいふしん)」(公共工事への負担)命令による財力不足の解消、また幕府からの中国との交易要求に応えようと、1609年に奄美諸島・琉球への侵攻を開始し、支配することになります。

 薩摩藩統治下では、最初は琉球支配下の仕組みを踏襲しましたが、島民の身分を「平百姓」と明確にし、旧来の門閥に限定しない役職の編成がおこなわれました。

琉球と中国間における朝貢・交易による文物の流入は、薩摩藩支配下でも行われましたが、薩摩藩は、この権益を守ろうと奄美諸島を琉球が支配しているように隠蔽する、「琉球之内(りゅうきゅうのうち)」政策をとります。島民の服装は大和的にさせず、姓も一字苗字にするなど琉球風を装いさせました。

薩摩藩は島ごとに分業制をしいていて、喜界島、奄美、徳之島は黒砂糖、沖永良部島、与論島を米の供給地にし、屋久島では屋久杉、琉球王府内ではウコン・黒糖を作らせていました

1690年ごろ、砂糖黍の技術が導入されると、奄美の島々では黍作が増え、黒砂糖生産が普及していきます。黒砂糖は貴重な薬種として薩摩藩に多大な収益をもたらすため、藩の管理下のもと、次第に黒糖だけを生産する農業形態(モノカルチャー)へ傾斜していきます。このため食糧生産が乏しくなり、飢饉時には一家離散や村潰れを生み出すことになりました。また、税が納められなくなると「家人(やんちゅ)」と呼ばれる主人に対して人身的な隷属状態となる者やその子供の「膝素立(ひざすだち)」を生み出すこととなり、武士身分に準ずる「郷士格」、島役人、一般百姓などと階層が分かれ、農民一揆が起こるようになりました。

サトウキビ畑

黒糖の技術を伝えた人物の一人である三和良(みわら)の墓(奄美大島大和村)

多面的な史料を収集するなかで、既存の奄美研究にはないいろいろなことがわかってきました。例えば、幕末には人口は1.35倍増え、板付舟が多く造られていたことがわかりました。人々は「砂糖黍地獄」といわれた時代でも米を作り、芭蕉糸や材木を琉球に売って稼いだりしていました。歌や祭りは暮らしのなかでの楽しみだったでしょう。過酷な時代でも、奄美の人々はエネルギッシュに生きていて、今につながっているのだと思います。

薩摩の役人の監視のもと、黒糖の荷造り(イメージ)
イラスト/市來美穂

薩摩藩の代官所跡地(奄美大島笠利町)

「砂糖製ノ図」(『南島雑話』奄美市奄美博物館所蔵)

写真.解説/ホライゾンVOL 30 より抜粋

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