文化と歴史

奄美群島文化概略

奄美群島の文化

多様性にあふれる島々

奄美群島は多様性にあふれる島々です。深い森、まばゆい白砂と青い環礁の海など傑出した自然の多様な風景は国定公園に指定されています。また、世界自然遺産の候補地になっている島々は、動植物たちが生物多様性にあふれています。それだけではありません。実は、文化も多様性にあふれています。

琉球文化の影響

奄美群島は、中世期には琉球王国、近世期には薩摩藩の統治下にあった歴史を持っています。それによって、鹿児島県に属しているとはいっても、島ごとに濃淡を描きながら琉球文化が見え隠れしています。たとえば、奄美群島の言葉(方言)は、言語学の分類では琉球方言のグループに入りますが、その内実は「ありがとう」の言葉ひとつをとっても島ごとに違います。そして、土地の地名の類似をたどってみても、沖縄と共通するものが多数あります。精神文化の世界では、かつて琉球王府が確立させていた神女組織「ノロ」制度とその祭祀にちなむ痕跡が各島に残っています。また、墓のかたちは現代のものこそ本土と同じ様式であっても、島々で「モーヤ」、「トゥール」等とよぶ山中や崖下にある古墓は、沖縄の古い葬法や形式に通じています。その他、日常の穀物を保管する「高倉」という建物や農・漁で重宝した竹カゴの民具にも沖縄との共通性が出せます。それがさらに、島ごとにかたちの違いを持っています。

ノロの儀式(奄美大島奄美市)

トゥール墓(徳之島徳之島町)

薩摩藩政下となって

近世の薩摩藩政下になると、サトウキビから出来る黒糖が税の対象となったことで人々の生活は苦労を伴うことになりましたが、サトウキビは時代を超えても重要な農作物であり続けました。黒糖を原料に用いた「奄美黒糖焼酎」は、昭和29年から奄美群島限定生産として許可され、各島で個性的な味わいを持つ銘柄が多く作られています。また、サトウキビを活かした「キビ酢」や、米と薩摩芋から作る「ミキ」とよぶ飲料は、島人の発酵を活かした知恵の賜物です。厳しい時代、食糧事情を支えたのは毒性を持つ植物の「ソテツ」。その毒抜き作業にもカビづけによる発酵分解の知恵が活かされてきました。山林が多く平地に乏しい奄美大島一帯では、集落から離れた耕作地との行き来のために、沖縄で漁に使われるサバニとは違った、積載量重視の構造を持つ「イタツケ」とよぶ舟を生み出しました。当時の島人の普段着は糸芭蕉の繊維で織られた、涼しげな「芭蕉衣(バシャギン)」。つややかで神秘的な黒褐色が美しい絹織物「大島紬」は藩政期には上納品でした。これら衣服を作る技法は、紆余曲折ありつつも今に受け継がれています。

奄美黒糖焼酎の二次仕込み風景

本場奄美大島紬の泥染めの古典柄(奄美大島)

田畑での仕事の疲れをいやす娯楽から培われてきた文化もあります。各島で、仕事を休んで遊ぶ日には農耕用の牛同士を闘わせることもありました。徳之島ではそれを「牛なくさみ」とよんでいたものが、今では、年間を通した闘牛大会へとつながっています。また、「シマウタ」とよぶ伝承的歌謡は、音階や楽器が南に行くほど沖縄に近くなるグラデーションを持ち、曲数も豊富です。

琉球とヤマトが重層する島々

闘牛大会(徳之島)

島唄の歌遊び風景(徳之島)

〈南〉の琉球と〈北〉のヤマト(薩摩)が重層する、日本でオンリーワンの歴史を持つ奄美群島。その南北との縁を、島人は亜熱帯の気候のなかでたくましく熟成させ、島ごとの個性を育んできました。いわば、ここは共和国的な島々の集合体。今も多様な光を放ち続けています。

解説/町健次郎
写真/ホライゾン編集室

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