コラム

有吉佐和子文学顕彰碑  三島村・黒島大里

離島の課題 社会に問う

鹿児島港から南西へ約144キロの洋上に浮かぶ古い火山性の島、黒島。絶壁と急峻な坂が多い島の東端に、作家・有吉佐和子(1931〜84年)の筆跡で、小説の題名「私は忘れない」が彫られた文学顕彰碑が立っている。

短大卒業後、文壇デビューして間もなく芥川賞や直木賞の候補になった有吉は、58年8月、雑誌のルポルタージュを書くために片道12時間をかけて、姥捨伝説が残るという黒島へ降り立った。絶海の孤島で出会ったのは、懸命に生きる村人と教育者たちだった。感動した有吉は、「私は折あれば黒島を、都会の人々に語り続けるだろう。文明の中で怠惰に流れようとしている人々の生活に塩をぶっかけるためにも」(「婦人公論」同年9月号より)と綴った。島での出会いをもとに翌年から初めての新聞小説「私は忘れない」を、朝日新聞夕刊に連載していく。

映画女優になるチャンスを逃した主人公が、偶然見た写真集に促されて黒島へ行き、島人たちの姿から自分の生き方に目覚めてゆく物語だ。埠頭も通信設備も医療施設もない黒島で、家も畑も台風で流される中、生徒や村人を守ろうと教員たちは奮闘する。困窮しながらも逞しく生きる人々を描き、主人公とともに「辺地は忘れられてはならない」と社会へ訴えた。後に単行本になり、同名の松竹映画(60年公開)になるなど、黒島の名は全国に知られることとなった。

有吉は、父の転任で6歳から10歳までジャワ(現インドネシア)で育ったが、日本の古典芸能に傾倒し、小説も執筆した。演劇も手がけ、姥捨伝説で注目された深沢七郎の小説「楢山節考」が、歌舞伎座で上演されることとなった時、脚色・演出を担当したのだった。この「姥捨伝説」に興味を持ち黒島を訪ねたのだが、次第に興味本位で島をさぐる気はうせていったという。

小説「私は忘れない」から始まった離島の問題への強い思いを、有吉は生涯忘れなかった。67年には、水戸射爆場の候補地になった東京都の御蔵島を取材した小説「海暗(うみくら)」を発表、80年には、北海道から沖縄までの16島を精力的に取材し、「日本の島々、昔と今。」を文芸誌に連載。社会への問題意識は、代表作「恍惚の人」「複合汚染」へも繋がった。

ベストセラー作家、劇作家、演出家としてひたむきに生きた有吉。53歳の早すぎる死を悼み、さざめく白波を側面に刻んだような碑が黒島大里に建立された。

参考文献

▶有吉佐和子「『姨捨島』を訪ねて」」(婦人公論9月号1958年9月号)

▶有吉佐和子「私は忘れない」(中央公論社、60年)

▶瀬沼茂樹「有吉佐和子選集—月報10 最初の新聞小説のころ」(新潮社 71年)

▶三島村役場「広報みしま」(92年3月〜12月)

▶新潮日本文学アルバム「有吉佐和子」(新潮社、95年)

▶「有吉佐和子の世界」(翰林書房 2004年)

▶「忘れられた島」(岩波写真文庫復刻版 08年)

<碑データ>

碑は高さ2㍍。1992年に三島村が建立。制作は、鹿児島の彫刻家、竹道久。三島村黒島大里。

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