コラム

南九州 文学の碑(いしぶみ)-奄美復帰祈る魂の言葉-泉芳朗

泉芳朗詩碑

詩人で奄美群島の日本復帰運動のリーダーだった泉芳朗。その詩碑が、奄美市街地を一望するおがみ山公園に、建立されている。

わたしはただ一介痩身の無名詩人

(中略)

よしや骨肉ここに枯れ果つるとも

八月の太陽は

燦として 今 天上にある

されば膝を曲げ 頭を垂れて

奮然 五体の祈りをこめよう

祖国帰心

五臓六腑の矢を放とう

(1951年8月「断食悲願」の詩より抜粋)

1905年、徳之島の旧伊仙村に生まれた芳朗は、鹿児島県立第二師範学校を卒業後、教育者の道を歩み始める。詩作に目覚め、白鳥省吾の「民衆派」の同人となり、上京して教職を続けながらも、詩集3冊を刊行する。詩の雑誌を創刊して、高村光太郎や宇野浩二、小熊秀雄など多彩な芸術家らと活発に交流を深めた。

しかし、健康を害して39年帰郷。戦況が深まるなか、校長として奮闘するも、敗戦、翌年、奄美は米軍政府下となり北緯30度以南が県本土と遮断され、島は困窮を極めていった。芳朗は文化によって活気を呼び戻そうと講演や執筆活動を再開。奄美文芸家協会を創立後、県視学という教職を辞して、総合雑誌「自由」の社長を引き継いだ。

日本への復帰を願う声が島中に高まり、51年には、奄美大島復帰協議会議長を要請される。「タゴールにマハトマと敬称されたガンジーの驥尾(きび)に付して奄美大島のために献身できたら何の悔いもない。生死を共にしよう」と、大役を引き受けたという。47年に非暴力でインドを独立に導いたガンジーのことは、奄美にも伝わっていた。芳朗は「奄美のガンジー」になることを期待された。

復帰協議会議長になった芳朗が早速行ったのは、20万余りの群島民による復帰署名運動と断食祈願だった。署名は2ヶ月の間に、14歳以上の全群島民の99.8パーセントから集まり、芳朗が高千穂神社で5日間の断食を決行すると、群島各地がこれに続いた。断食最終日の早朝、集まった群衆を前に、朗々と読み上げられたのが、この「断食悲願」の詩である。

米軍政府の抑圧のなか、芳朗らは一歩も怯まず1万人規模の総決起大会、国内外への電報作戦、国会への陳情などで運動を進めた。内外四十万人の協力も得て、奄美の復帰運動は怒涛のように広がっていった。そして米軍政府統治下から8年後の53年12月25日、奄美群島は日本国へと復帰を果たす。郷土を愛する詩人芳朗の魂の言葉と、平和的な民族運動に共鳴し一丸となった群島民の勝利だった。

奄美は今年、日本復帰70年を迎える。あらためて芳朗の詩文の強さを、かみしめてみたい。

2023年4月1日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

泉芳朗

急性肺炎のため急逝した芳朗を悼み、一周忌の1960年4月9日に建立。近くには復帰記念碑、泉芳朗の胸像も立つ。奄美市名瀬

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