コラム

南九州 文学の碑(いしぶみ)-「農村小唄」の碑 奄美大島宇検村

米軍統治下の応援歌

敗戦の翌年、奄美の島々は日本本土から行政分離され、米軍政府の統治下におかれた。食料や住宅、衣料のほか教育や文化、産業も本土と遮断され、人々は飢餓感の中で荒廃した土地を耕していた。この時代に生まれたのが、「農村小唄」である。

 

♪唐鍬(とうげ)ぬ軽さよ ヤレ加那と打ちゅる ♪

♪荒地畑(あらじばて)ぬ ソレ 唐鍬の軽さよ ♪

(※唐鍬は、三又のくわ。加那は、いとしい人)

 

「今、本土では『リンゴの歌』が大流行で、国民の心に灯(あか)りをともしてくれましたが、奄美では「農村小唄」を歌って、皆さん元気を出してください」。作曲した村田実夫は、こう語りかけてアコーディオンで歌い、奄美各地を巡業した。軽快な詞とリズムの「農村小唄」は食料増産時代の応援歌となり、1953年には沖縄・宮古島にまで普及したという。

歌の背景には、48年7月の地元新聞による「全諸島住民の愛唱にふさわしい新作歌謡」の募集がある。一ヶ月後、1等に入選したのが「農村小唄」で、作詞は宇検村出身の俳人、政岡清蔵。審査員を務めた詩人でのちに奄美の日本復帰運動の父と呼ばれる泉芳朗は、「ミレーの絵を見るような詩情、(略)〜明日の生活への明るい希望」があふれていると称賛している。

作曲を託された村田実夫は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で声楽を学び、島唄と西洋音楽を合わせた独自の作風を作り上げた。「新北風(みいにし)吹けば」、「本茶峠」「名瀬セレナーデ」などいまなお愛唱される新民謡を残している。

奄美が米軍政府下におかれた8年間は、先の見えない不自由な時代だったが、自分たちで郷土の文化を創造した時代でもあった。

戦後まもなく、旧名瀬市に奄美文化協会が発足。青年らが発足させた「あかつち会」は、“文化奄美の建設”を掲げて各種文化活動を開催し、新しい文化を作る機運を引き出した。「あかつち」は、奄美の郷土の色である。芝居や新民謡が次々と作られ、新聞や雑誌も発行されるなど奄美文化が賑やかに開花した。この時代の活動は「あかつち文化」、あるいは「奄美ルネッサンス」と呼ばれる。

軍政府の検閲の強化などにより、活動の多くは消滅していったが、そのエネルギーと発想は奄美の日本復帰運動へと引き継がれていった。12月25日は、70年前、奄美群島が日本に復帰した日。飢えと戦った時代に、人々の心を満たしてくれた多くの新民謡に思いを馳せたい。

2023年12月1日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載

参考文献

  • 「南海日日新聞」(1948.7〜8月)
  • 「軍政下の奄美」(奄美郷土研究会、83年)
  • 「全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動」(南方新社、2003年)
  • 「情報誌ホライゾン VOL17」(ホライゾン編集室、03年)
  • 「大人青年」(指宿良彦、04年)

⚫︎農村小唄の碑

1982年、穏やかな焼内湾を見渡せる政岡清蔵の出身の地に、同村が碑を建立。除幕式は政岡の三回忌に合わせて盛大に行われ、望郷の詩人の霊を弔ったという。(宇検村宇検)

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