コラム
南九州 文学の碑(いしぶみ)-一色次郎「青幻記」碑 知名町
追憶と望郷の小説舞台
「私は書かなければならない。書くのでなければ、生きて行かれない」(「左手の日記」より)
執念のように書き続けた沖永良部島出身の作家がいる。一色次郎(本名・大屋典一(すけかつ))は、1916(大正5)年に生を受けた。3歳のときに父が獄死し、婚家を追われて生き別れた母と会えたのは、小学校5年生の夏。大阪にいた母は結核を病み、鹿児島から南へ約550キロの隆起サンゴ礁の沖永良部島で一緒に暮らすことになった。
母は半年後亡くなり、彼は鹿児島の祖父の後妻に引き取られた。行商や屋台引きに出され、尋常高等小学校高等科を中退後、職を転々としながら、作家を志す。
37(昭和12)年に上京して30余年。母への追憶と望郷の念を胸に初老の主人公が母の改葬に行く自伝的小説「青幻記」が、67年に第3回太宰治賞を受賞した。
選考委員で文芸評論家の中村光夫は「理想的、牧歌的にすぎるが、作者の心に根をおろしている母の像と強い望郷の念がひとつになってみごとに昇華されている」と評した。沖永良部島は全国に知られることになった。
小説に感銘を受けた一人に、映像の名カメラマンとして知られた成島東一郎(なるしまとういちろう)がいた。映画化が決まっていた「青幻記」の監督を熱望し、脚本や撮影も兼ね、初の監督作品としてほぼ忠実に小説を再現したという。映画は73年に公開され、美しい島の映像と悲しい母子の物語は、日本中に感動を与えた。海外でも上映されて反響を呼んだ。
一方、一色次郎を生涯突き動かしたのは、父を巻き込んだ島での事件だった。暴力団の頭目に恐怖を抱いた青年団員たちが、懲らしめようとして死亡させた。父は現場にいなかったが、9人の青年団員とともに投獄され、22歳で獄死した。団員のうち2人は無罪。この理不尽を究明しようと、「太陽と鎖」「父よ、あなたは無実だった」などの作品に結実させた。晩年は、死刑廃止運動の先頭に立つ。
「空想的な少年で〜どんな逆境のなかでも、たえず書いた」(「愛の風土と人生」より)。20歳で鹿児島朝日新聞(現・南日本新聞)に小説を連載。上京後に2回、直木賞候補となる。戦争中に書いた日記は、共編『東京大空襲・戦災誌』となり菊池寛賞を受賞。児童ものも執筆し、「サンゴしょうに飛び出せ」はサンケイ児童出版文化賞を受けた。
多様な足跡を残した彼に今、再評価の声があがっている。ぜひ、期待したい。
2023年8月5日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
参考文献/「太陽と鎖」(河出書房 1964年)、「青幻記」(筑摩書房 67年)、「愛の風土と人生—古里日記」(日本文芸社 73年)、「左手の日記」(旺文社文庫、75年)=いずれも一色次郎著=、映画「青幻記」パンフレット(東宝 73年)