コラム
南九州 文学の碑(いしぶみ)-3島の「むちゃ加那」碑
流浪した母と娘の悲劇
加計呂麻島・喜界島・奄美大島
母娘(ははこ)の悲劇が島を越えて歌い継がれ、3ヶ所に碑が建てられた島唄がある。名曲「むちゃ加那」だ。
ハレイー喜界(ききゃ)やイ小野津ぬヨ ヤーレイ十柱(とばや)むちゃ加那ヨイ
♪ ハレイー青海苔(あおさぬり)はぎが ヤーレイ行もろ
(訳/喜界島小野津の十本ガジマルのむちゃ加那よ、青海苔を採りにいきませんか、むちゃ加那よ)
物語の概略はこうだ。薩摩役人の島妻となることを拒んだ娘は、島を脱出。流れ着いた地で島人と結ばれ娘を出産したが、美しく育った娘は青海苔摘みに誘われ海で溺死した。今回は、各地に残る「むちゃ加那」の碑と言い伝えを辿ってみた。
最初の舞台、加計呂麻島(瀬戸内町生間/いけんま)には、娘が身を隠した丘の上に、空に向かって歌うように歌碑が立つ。1990年の日本民謡の全国大会で地元の唄者がこの歌で日本一に輝いたのちに瀬戸内町が建立。今も毎月旧暦9日に、住民が清掃やお詣りを欠かさないという。
島唄は奄美が誇る素晴らしい口承文化だ。いつ誰が創り、歌い始めたのかはよくわかっていない。1927年発行の『奄美大島民族誌』によると、娘の名はむちゃ加那、喜界島へは家族で逃れたとある。だが1933年発行の『奄美大島民謡大観』では娘の名はうらとみ、曲名も「うらとみ節」となり、その後、これが一般的となったようだ。うらとみは歌って回った門付き芸人を指すという説もあり、同名の八月踊りが、各地に残る。文字がなかった時代、歌はメディアだった。悲劇が連綿と歌い継がれるうちに、様々なドラマを飲み込んでいったのかもしれない。
主な舞台となった喜界島の『小野津字史』によれば、漂着したのは美人で三味線と歌の名手だったますかなという女性で、その娘がむちゃ加那だという。この地では、丸い石に刻まれた碑が観光客を迎えている。ますかなの墓は公園のすぐ下にあり、むちゃ加那の霊と共に親族が旧暦6月18日に慰霊している。
最後の舞台の青久(奄美市住用町市)には、むちゃ加那の遺体が流れつき、村人が丁重に葬ったという伝承が残る。碑は海岸近くに建てられ、今でも祈りを捧げる姿があると聞く。
三つの碑に支えられて、むちゃかなの魂が永遠に安らかであることを祈りたい。
2022年8月7日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
南日本新聞2022年8月6日」「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
<参考文献>
茂野幽考「奄美大島民族誌」(岡書院 1927年)
文潮光「奄美大島民謡大観」(南島文化研究社 1933年)
「郷土史(神代・大島・喜界島概史・小野津字史)(小野津尋常小学校編・発行 1939年)
籾芳晴「奄美島唄ひと紀行」(南海日日新聞社 2001年)