コラム
南九州 文学の碑(いしぶみ)- 岩倉市郎の顕彰碑 喜界町阿伝
喜界島民俗研究に尽力
サンゴの石垣が残る喜界島の阿伝集落。海沿いには、日本の民俗学の草創期に南島を研究して業績を残した岩倉市郎(本名・虎一郎)の顕彰碑が建立されている。
1904年、阿伝に生まれた岩倉は、県立志布志中学校に入学し、早くも方言や昔話に興味を持つ。結核を発症したが、静養後に大阪の漢学塾に学び、さらに南島研究で著名な「沖縄学の父」・伊波普猷を訪ねるために上京。言語学の素質を認められ、南島方言の研究に熱中してゆく。
だが過労や貧しさから、31年に結核を再発。妻の郷里・新潟や喜界島で静養しながら、採集した昔話を雑誌に発表すると、これが民俗学の創始者柳田国男の目に留まり、大阪民俗談話会の一員となった。
岩倉は、さまざまな方言を聞き分けられる鋭敏な耳を持っていた。温厚な人柄で、話者から多くの昔話を流れ出るように聞き出し、速記術を使って忠実に記録できた稀有な人であった。
35年には、談話会を通じて実業家・渋沢栄一の孫、敬三の知遇を得る。敬三は財界人ながら、民俗学や研究人材育成に多くの私財を投じていた。
娘を事故で亡くしたばかりの岩倉は、学問に集中できる環境を求め、研究員になることを決めたという。戦争の足音が聞こえる不穏な時代であったが、敬三は温情を込めて、岩倉の研究環境を整えていった。
しかし、またしても病が再発した。岩倉は単なる静養ではなく、研究員として、喜界島の総合的な民俗調査を決意する。35年から一年半の間、島民の協力を受け、集中的に郷土調査をした。完成させた『喜界島代官記』や『喜界島年中行事』、『喜界島漁業民俗』は、南島の民俗研究の先駆的で貴重な資料として刊行された。
また、柳田の指導の下に集めた『喜界島昔話集』(43年)をはじめ、『おきえらぶ昔話』(40年)、『喜界島方言集』(41年)、『甑島昔話集』(43年)も相次いで刊行され、「まさに壮観な光芒」を思わせたという。
こうした中にも、病は確実に進行していった。転院を繰り返した43年の晩夏、多くの人々に才能と人柄を愛された岩倉は、志半ばで39歳の生涯をとじた。
阿伝集落には今でも、国内外から研究者らが訪れている。遠くから岩倉の魂が見守っているように思えてならない。
2024年4月6日 南日本新聞「南九州 文学の碑(いしぶみ)」掲載
◆参考文献
- 『岩倉市郎顕彰碑建立記念誌』(同建立委員会・1996年)
- 『日本常民生活資料叢書 第24巻』(三一書房・73年)
- 『国文学 解釈と鑑賞第47巻9号』(至文堂・82年)
- 『旅する巨人』(文芸春秋・96年)
- 『澁澤敬三先生と私—アチック・ミュージアムの日々』(平凡社・2007年)
- 『奄美郷土研究会報 38号』(02年)